「今・ここ・私」と言う考え方は、即興に関しては大変重要です。「今・ここ・私」度が高いことと即興性の高いことは確実にリンクしています。また「逆から考える」という方法をとってみましょう。
「今」でなければできない、「ここ」でなければできない、「私」でなければできない、という割合が高いかどうか?を自分に問います。それは演奏に限ったことではなく、人生全てに言えることです。
「今」でなくてもいい、「ここ」でなくてもいい、「私」でなくてもいい、のでしたら、やらなくても良いのではないか。演奏家になるべくして育ったわけではなく、謂わば「生き方」としてこの道に入った私にとっては大事な問いでした。「良い演奏」をするためではなく「今・ここ・私」度を高くすること、そうやって自らのリアリティを感じることが目的だったと言っても良いからです。そしてそれは現在も続いています。即興にこだわるはそのためなのでしょう。
直毅さんとのリハーサル中に吉祥寺の街を救急車が通りました。そのサイレンの音に反応して演奏に取り入れることはとても自然な成り行きです。「ア~うるさい」と言って窓を閉めてはいけません。窓を閉めることは,耳を閉ざすこと・身体を閉ざすことと同じです。耳を閉ざして、身体を閉ざして達成される音楽っていったい何なのでしょう?
救急車で搬送される人のことまではなかなか想像できませんが・・・・
川の流れを想像してみてください。その川の流れに乗ってあなたも流れている。気持ちよく乗っていることもあるでしょう、翻弄されていることも、ほとんど停滞していることもあるでしょう。でもそこには「今・ここ・私」は存在しない。ある時、意を決してでもフッとでも良いから、立ち止まってみる。流れに棹を差すと当然、流れの抵抗を受けます。その瞬間に「今」も「ここ」も「私」も一気に出現する。これが発見です。流れに身を任せているときは「今・ここ・私」は無いとさえ言えます。
その瞬間を待っているのが日常。その時発見する「今・ここ・私」はどんな姿でしょうか?それは、いままでよく知っている「今」でも「ここ」でも「私」でも無いと考えると愉快です。だから発見。知らなかった「今」知らなかった「ここ」知らなかった「私」に会うことが人生の目的と言ってみたいところです。
川の流れの中で立ち止まっている「私」のまわりには川の水が美しい『ノイズ』を奏でているはずです。決してベルカントの美声ではないでしょう。自らの存在を表す音はノイズです。そのトピックはいずれ取り上げてみようと思っています。
「私」とは誰?「私はどこから来て,どこへ行くのか?」人間にとって1番大きなテーマかもしれません。高校生の時に聞いたDNAの話は衝撃でした。「免疫システムこそが究極の自分自身」と言う話も好きです。しかし、ここでは自分(演奏)に沿って考えてみたい。自分というのは「通り道」と仮定します。人は誰でも、巨大な記憶を持っていてその中の極小の粒のようなもの、その記憶の貯蔵庫は全ての人がシェアしていると仮定します。人は大きな勝負事に際して「無になる」ことの大事さを知っています。それは、ゼロになることではなく、自分のちっぽけな人生をゼロにして、この大きな記憶に身を託すことによって自分を越えたチカラにアクセスするという方法だと思います。
自分なんて無いのか?みんな同じなのか?そう考えると、ちょっと寂しくもあります。いやいや、その「通り道」こそ自分だと思えば楽しい。巨大な貯蔵庫をつなぐトンネルだと。そのトンネルの形状こそが私の「個性」。細長くクネクネとしているトンネル、ぶっとく短いトンネル、検問所がたくさんあるトンネル、出口の見えないトンネル等々。中を見てみると、渋滞ばかりのトンネル、明るくて天井も見えないトンネル、ゴミだらけのトンネル、スーッと気持ちよく流れるトンネル、真っ暗なトンネル、等々。それが個性、そしてトンネル掃除こそが私たちの日常の仕事(練習)。
ともかく音は嘘がつけないので、そんな比喩を使いたくなります。頭も身体もクリアにして、楽器との関係もよくしておき、人々との関係もよくしておく。演奏家ならずとも全ての人に共通する「そうありたい日常」です。
即興演奏は、そういう考え方を当てはめたい演奏の一方法だと考えます。日常をキチンと送り,演奏の現場では、今・ここ・私に全アンテナを張り巡らす。そういう演奏の形態だと演奏者も聴衆も納得した上だと、よりよく作用する、そんな気がします。ヨーロッパでの即興演奏が盛んで日常化しているのは、そんな理由かと思います。日本の伝統から言って、馴染みのない方法ではありますまい。芸道、武道、茶道、華道、「道」のつくものでは必ず取り上げるトピックだと思います。
オリヴィエ・メシアンさんは収容所で「Quatuor pour la Fin du Temps」を書きました。すばらしい曲で、何種類かの演奏を聴きました。第二次大戦のナチドイツの収容所で書かれ、本人を含む収容者によって初演されたというエピソードからか、「世の終わりのためのカルテット」と訳されることが多かったのですが、本来は「『時』の終わりのためのカルテット」でしょう。いつ果てるともしれないバイオリンやチェロの旋律が普通の時の流れを止めてしまいます。ここでの時の終わりという意味は、「今・ここ・私」を現出させることから更にすすんで、「今でもここでも私でもない」=永遠 という文脈でしょう。
冒頭の写真は札幌「やぎ屋」庭先のトンネル、川は宮崎の大淀川