草野さんからの電話は実は2年以上前。昨年に実現予定だったのだが、助成金が下りず断念。今年は助成してもらえることになり実現。何年待ってもやりたい、という気持ちは尊重すべきである、と直感する。草野さんは「オレは閃いたんだ。これで行けるとね。」とおっしゃる。「はあ、さようですか・・・」(私)
今までの経緯を考え、何かがあるのかもしれないと、お引き受けすることにした。小山さんとだってずーーーっと共演していない。東京でもうち合わせは無し。羽田空港で久しぶりに会う。関係者間のいろいろな意識の相違などは100も承知、200もガッテン。完全なアウェー戦を覚悟。
空港から宮崎県立芸術劇場へ直行。舞台は組まれ、演奏する場所も決まっているし、演奏チャートも用意されている。「音楽の自由は保障されている」と言われるが、ここで何分、ここでこういうセリフがあります、ということが書いてある。異業種では単語の定義が違う。
「たまなぎⅣ」ぐるーぷ連・脚本:実広健士 出演:井上貴子
セリフはというと吉岡実「土方巽頌」38 聖あんま語彙篇から始まる。実広さんと少し話すと彼が私淑しているのが太田省吾さんというではないか。直接の交流もあったということだ。女優の井上貴子さんは20年前に私がLife Timeに行ったとき置いていったCD「String Quartet of TOKIO and Orchestra」と「Blue poles of Lear」を聴いて気に入ってくれて演劇でも使っていたということ。唯一の師匠が大野一雄さんだと言う。(関係ないけど、あと2時間で大野さん・バール・フィリップスさん・私の誕生日。)
私にとって身近な人々の名前がどんどん出てくるので、徐々にアウェー感は薄らいでいくが、なにしろ初対面、明日本番1回きり、という痺れるような状況のためリラックスなど不可能。ともかく彼らのやりたいことは何?ということを全身をアンテナにして探るのみ。会食時の一言一言もおろそかにできません。
今までも、橋本一子+井野信義で2回、原田依幸で1回、同種の試みをやってきているので、あちら側は、多少のシミュレーションはできているようだ。そのシミュレーションはどのようだったかも知ることはできず、こちらはともかく気を張り詰めて細大漏らさず居るだけ。
大きなリングが舞台中央にある。そこをくぐったり、遊んだりすることで話が展開する。これは野村喜和夫さんのいう「他の膜」だと直感。膜の内と外、生と死、浸透圧、血。
ともかくいままですべての音楽・演劇・ダンス経験を総動員して一生懸命つとめました。何人かの人が言ってくれたように好評だったのでしょうか?私に実感はありません。
翌日、せっかくだからということでLife Timeで小山さんとデュオ。何をしましょうと午後ずっと、かつてやったレパートリーなどを思い出しては、懐かしく思ってしまう。あれからいろいろなことがあったのだ。
ドラムとベースのデュオは前例はなく、といのは、ステージを持たせるのが大変。ベースソロ、ドラムソロならばいくらでも成り立つのに(小山さんも私もソロには慣れている)、ベースとドラムのデュオというのは本当にムズカシイのだ。普通にやっていると、どうしてもフロント楽器が欲しくなってしまう。
しかし方法はあるはずだ。大きく分けて私も打楽器的アプローチをするものと、私がメロディを取るという2種類しかないわけで、いろいろと案を練る。世界のいろいろなリズムをやるという基本線が浮かび上がる。
アフリカ・グナワ音楽(モロッコ系)のリズム、トルコマーチ(マーチの小太鼓とシンバルがドラムスの基本だとかねがね思っている。シンバルのジルジャンはトルコ発祥)、4ビートは敢えてロマ風に「ジャンゴ」と自由になれるアンソニー・ブラックストンの曲を使う。
第二部では、2人のソロということで、私はピアソラの「コントラバヘアンド」と「王女メディアのテーマ」。彰太さんはフリーのソロ。その後、ブラジルのショーロのリズムを叩いてもらい「鱈の骨」、そのまま「オルフェのサンバ」、韓国の5拍子と36拍子(これは孫子の兵法からきている。キムデファンに習ったことを思い出す。)、そしてカム・サンディで閉めた。
草野さんの釣った黒鯛をごちそうになり、すこしアルコールも解禁して、35年前、20年前、演劇時代、舞踏時代のことをさまざまに思い出すプチ・センチメンタルジャーニーは終わった。過去と現在はかろうじて繋がったのだが、それは未来に繋がるのだろうか。じっくり我が身と周辺を見つめなければ。
表紙の写真は税田輝彦さん撮影
昨日の表紙とこの写真は草野賢治郎さん撮影