今年、シリーズもの始動します。毎度お馴染み東中野ポレポレ坐「徹の部屋」vol.6は2月26日 ゲストは五禽戯という中国気功の齋田美子さん、ヴァイオリンの喜多直毅さんです。こんな感じ↓
はるか30年以上前、学生の頃に衝撃を受けた本に「胎児の世界」(三木成夫・中公新書)があります。人は受胎してから生まれてくるまでに生物の歴史を全部体験してくる、という話は鮮烈でした。その頃流行っていた松鶴家ちとせさんのギャグ「俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けで、父さん胸焼け、母さん霜焼け」ではありませんが、自分が昔、魚だった頃とか、鳥だった頃、とかを想像するだけで、閉塞感満タンだったその頃、ずいぶん救われました。
アントニオ猪木とモハメッド・アリの対戦のことまで取り上げられている楽しい本で、やはりその本に書いてあった「胎内血流音」(室岡一博士が録音)も何とか手に入れました。全人類が、胎内で(生物の歴史を辿っている時に)ずっと聴いていた音です。そのノイズの凄いこと。遠い記憶を喚起するような感覚、不思議な安堵感、海をじっと見ているような感覚。この本とこの音が、私が今まで音楽や音に関わってきた原点の一つであることは疑う余地はありません。
昨年、土日画廊の板橋さんの紹介で五禽戯の齋田美子さんに会うことができました。まさに「昔、わたしが熊だった頃、とか、昔私が鶴だった頃」という気功だったのです。もちろん気功は本来見せるためのものではありません。齋田さんはかつてダンサーだったので、「五禽戯に齋藤徹の音をかぶせてみよう」という発想を得、今回に至りました。
ヴァイオリンの喜多直毅さんとは昨年黒田京子さんの紹介で会いました。音を強烈に必要としているその心と身体、「全てか無か」を問いかける激しさに惹かれました。楽器を弾く身体に興味があるのではと、今回お誘いしました。
前例のないことなので、どういうものになるのか、大変楽しみです。是非、現場にお立ち会いください。
(齋藤徹)
3月2日から始まるのが、田中泯さんとの「『白鳥』へ」というデュオシリーズです。
吉田一穂さんの命日のこの日にデュオの企画がありましたが、潰れました。しかし、企画が決まった半年前から、私の中のスイッチは入ってしまっていたので、泯さんと相談したところ、では場所を代えてやろう、ということになりました。『白鳥』とは、吉田一穂の到達点と思われる15篇の詩。
<主催plan-B>
3/2【火】20:00(開場30分前)
齋藤徹・田中泯 デュオ『白鳥』へ」(1)隣への落下
美術:らん
照明:田中あみ
料金2500円 一律
※必ずご予約ください。
私の考えはこんな感じ↓
私たちには、もはや、奏でるべき音楽・踊られるべき踊りは無いのかもしれない。名前の後ろに(ダンス)とか(音楽)とか付けません、とplanBに言われる。なるほど、同じ考え方のようだ。でもやる。やらねばならい。
昨年9月に「オンバク・ヒタム(もう一つの黒潮)」という公演をやり、泯さんに踊っていただいた。いや、居てもらわねばならなかった。吉田一穂の『黒潮回帰』や網野善彦の逆さ日本地図などの書物からのアイディアと、自らの東南アジア・沖縄・韓国・北海道の経験からの妄想の舞台化だった。(一穂は地軸が傾いていたはずだという想像をしているのだから、規模は比較にならないが。)
ミラーニューロン(物まね神経)。動いている泯さんの前に立つと身体の中の何かが動く。それはおそらく身体の70%を占める「水」のようだ。ゆらゆらと動く水はヴィブラートになり、長短(チャンダン)になり、器に収まりきらず、こぼれ、散る、それが思わぬ音となって出て行く。対する泯さんはどういう音を出す・踊るのだろう。
一穂には「山中の塩」というただその一言の詩がある。一穂を読んでいる人なら、「その山がかつて海だった頃に思いを馳せよ、そして塩が何千年もかけてザクザクと結晶化するその瞬間を思え」ということだろうな、とニヤッとするだろう。今回で言えば、細胞がヒトになり、海水と同じ濃度の塩を血の中に備えるこの身体の中の水が、司祭の動きに反応して音になる、ということか。
この島では、あらゆるもの、言葉や意識やノイズも自由も革命も、「商品」となり奪われてしまった。その後に残ったのはこの貧しい身体だけ。数限りない獣や魚を食らい、野菜を食らい、性交を欲してきたこの身体だけだ。デコレーションやイフェクトを酒の肴にして浮かれて叫んでも、酔いはすぐに覚める。貧しい音、貧しい身体と共に半眼微笑して「そこにいる」だけだ。精一杯の知恵と技を使って。
(齋藤徹)
3月14日
planBでの今井和雄さんとのデュオシリーズも始動です。
今年はCDやDVDの発表も視野に入れております。
↑の写真は荒谷良一さんの撮影