ダンスと音(6)

「アランと仲間達」公演終了。
その経験も新鮮なので、前回に引き続きダンスと音のことを補足して書き残しておきます。

「踊りは何かを探す仕草、音楽は何かを呼ぶ作業」という野口三千三さんの説は、いつも何かを示唆してくれる。踊りが探す仕草とすれば、全身の感覚を研ぎ澄ませていなければならないはず。目・耳・鼻・皮膚・身体全体を感覚器官として開いた状態にする。

既成の音楽を切ったり貼ったりして、「効果的に」という企みは、感覚を閉ざすことだし、発見を逃すことになる。感覚を開いていれば、自ら発する物音、足音、衣擦れ、動悸、呼吸の音、すなわち「ノイズ」は大事な要素になるはずだ。

同様に、音楽が何かを呼ぶ作業とすれば、人間が楽器と共にある時に出現する、あるいは、すでに存在する音・ノイズは、消してはならない。ノイズを消すことをソフィスティケーションと誤解してはならない。答えている声を聴き取るために、全身を耳にする。全ての音が絡み合っているだろうし、ノイズの中でしか答えてくれない。

何かを求めている、ということに関してはダンスも音も同じ。「求めるに足る自分でいること」その条件は厳しい。「よそいき」では答えてくれない。身体の全て、感覚の全てを担保にさしだす気持ちが必要。

ダンスと音楽の共演に際しては、そういう合意が必要になる。コラボレーションというのは、本来、そういうことだ。

即興と振り付けの関係も大事。私が一番困るのは、「どうぞ、好きに弾いてください。」と言われるけれど、ダンス側はしっかり振り付けがあり、稽古をし尽くしているような場合だ。同じ土俵にいることが何よりも大事。振り付け48%なら、音楽も48%準備したい。

「ダンサーを観ながら演奏すること」と前回書いたが、補足すると、「焦点をあわせずに観ること、そして、時に、焼け焦げるほど焦点をあわす」こと。今回、最終シーンは、全員が舞台に出て、自分が踊った振り付けを、部分的にインプロの素材として使うという取り決めだった。なにせ7人のダンサーが勝手に舞台で別々の踊りをしているのだから、混沌そのもの。しかし全体をボンヤリ観ていくうちに、一つのものがボンヤリ立ち上がってくる。そこにむかって音を出す。時に、あるダンサーに焦点を当てる。そんな繰り返し。即興と振り付けの関係も納得の上に展開していく。

今回のホールは、本当に音響が良かった。クラシック・現代音楽専用のホールとして厳しく管理運営されているようだ。静岡、徳川家、葵のご紋のAOI音楽館。コントラバスソロの場面があったが、極太のガット弦の幾多の倍音がやさしい残響と共に空気を伝わっていくのが見えるようだった。黒沼ユリ子さんとシューベルトを弾いた名古屋のしらかわホールとよく似ている。弦の音がとても自然に響く。

日本における西洋クラシック音楽の牙城はとても強い。多くの人がそれを守っているし、それで生活している。教育・興業・マスコミを含んだ大きな大きな組織だ。しかし、西洋クラシック音楽の普及のために、エリートたち、お金持ちだけがこういうホールを使っているのは、とってもしゃくです。

私自身が西洋音楽の楽器を使っているということが問題だ、とおっしゃるならば、全くその通り。また、良い音を味わうこと、多数の聴衆が静かに集中して音楽を聴くこと、たくさんの人の前で演奏すること、さらには、聴衆のチケット料金で生計を立てることの意味を、いちいち考えないといけないのかもしれない。

それにしても、5年間にわたりアランを毎年呼びワークショップをし続け、大阪・名古屋からもワークショップ生を募り、こういうホールを押さえ、お客様を集め、出演者に微細な気配りを怠らず、そして、そう、無謀にも私のような演奏家をゲストに使って実施したプロデューサーは大したものです。ご苦労様でした。

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