ダンスと音(3)

さて、2足歩行していたニンゲンが、1・2・1・2ではなく1・2・3・1・2・3で歩きたくなった。すると1の足が、右・左・右・左と変わる。重心が変わることで左右に揺れることになる。振れと戻りを繰り返す時、重たい頭が遅れて戻るので、揺れにタメがうまれ継続する。その時、ダンスが始まった、という空想。

そんな時から遠く離れているが、身体も心も「進化」しているはずもなく、身体に心にさまざまな記憶が刻まれたままだ。

野口整体の重要事項一つに活元運動がある。呼吸法をうまく使い(例えば、伸びをする時に、わざと息を吐いたりして)意識を離れた肉体の病んだ部分が、勝手に動きだし、身体を正常に戻していく、という運動だ。病んだ部分が呼吸を始め、血の流れが良くなるという現象だろう。多くの人が一緒に活元運動をしているのを見ていると、とても異様。まるで暗黒舞踏集団のようだ。逆から見ると、ヒトは自意識を保つことにより、「自分」を保ち、それが身体を緊張させていることになる。

早稲田小劇場からの伝統で、リハーサルの時に興味深いエクササイズがある。役者たちが列になり円を歩いている。指導者が合図し、例えば「右まぶた」と言うと、右目だけを痙攣させながら歩行を続ける。それは時に「左足中指」になったり、「右半身」全体だったりする。外から何かを思い出させているように見えた。

揺れる・振れる・痙攣するということに対する忌避・拒否感覚、それは、「ちゃんと・しゃんと・チャーっとしなければ」という感覚の裏。韓国伝統舞踊の一つ病身舞では、身障者の真似をしたり、痙攣をしたりする。日本の舞踏の多くにも痙攣がある。忌避されていることを敢えてやることによる「当たり前のこと」への問いかけ。

踊りを「何かを探す仕草」と言った野口三千三の言い方に従えば、手足を振るわせながらの所為は自然・当然のことであり、昆虫・動物に見られる感覚器官の最高度のパフォーマンス、もとを正せば、生きるための本能、美しさや表現は初めから越えている。

スポーツ選手(ミュージシャンも)は試合や競技の前に、さかんにストレッチをしたり身体を痙攣させたりしている。身体をリラックスさせることが、良い記録や良い結果を生むことを知っているからだ。

「知的」な演奏家ほど、「乗り」やグルーブを嫌がるように思える。身を任せきることは、隠してきたことがでてきたら大変ということで、恥ずかしいことなのか? 乗る、ということは自分を失うことであり、知的に構築できる世界を否定することになるのか?多くの情報を基にして自己をコントロールすることが優であり、表現が「個人」の「自己表現」で無くなることは、劣であり、危険なのか?個性が無くなることなのか?身体を揺らす、動かすことによって、身体に宿っている記憶を呼ぶ。それは、「進化」してきたものにとって「後戻りすること」ゆえに、避けたいことなのか?知らない記憶と対面するには好奇心と受け入れる勇気と諦観が必要条件。

「乗り」に身を任せ、繰り返しを貪ることで、単に肉体的な限界に従い、昇華・発散することへの危惧か?それは何も生まないのか?何も解決しないか?そして解決は必要なのか?あくまで「進歩」しようとする習性はDNAに書いてあるのか?

築き上げてきたものは、すべて自覚的なものであり、論理的であるべき、ということへの自信・確認と、いや、もしかしたらそうでないかもしれないという隠された「気づき」。そんなアンビバレントな感覚がダンスへの衝動、ダンスを観たい・見たいという衝動になるのか。見ること・観ることはミラーニューロンを通じて踊ることになる。

音がきっかけを与えられるなら、それはノイズ。

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