improvisationはどこへ向かう?

ミュンスターへ移動して再びミッシェル・ドネダ、ル・カン・ニン、ファブリス・シャルルとのセッション。途中の高速道路は、川のように土砂降りだったりするが、ミュンスターは初夏。雨の兆候さえない。会場のBLACK BOXに着くと、もう彼らはスタンバイ準備中。今日はWIOでも共演したギターのエアート・イルトも参加している。

2日間のファンファーレも成功したそう。参加者の半分以上はロマの子供達。かなりアグレッシブ。挨拶をするなり「その楽器いくら?」「どんな車に乗っているのか?」「その靴はいくら?」という種類の質問攻めだったそうだ。しかし何時間かブラスを吹かせて戸外で楽しむとだんだん本気になってきて最後は素晴らしいアンサンブルを聴かせてくれたという。教育問題というのが、民族問題を多く含む意味で日本での教育問題とは位相が違っている。そのためにこういう企画に対しても積極的に予算が下りるのだろう。

演奏が始まる。ともかく彼らはう・うまい。ほれぼれする。高い技術で、繰り広げられる即興音楽に、ついていくだけで楽しい、そして、こちらの音もしっかり聴いてくれているので、やりがいもいや増し、時に思いも寄らぬ展開になったりして、それだけで充分楽しいし、満足できる。そういう感覚が「分かる」聴衆には楽しさは充分伝わるだろう。しかし、そうでもない聴衆にとってこういう演奏はどうなのか?という疑問が少しずつ湧いてくる。そのくらい、演奏性が高く、面白いのだ。

息や風だけに成ってしまったミッシェルのサックスの音、千変万化し打楽器であることを意識させないニンの音色、今日はかなり暴れているファブリス、どれだけの試練の果てにたどり着いたか、どれだけ尊いかは、私には推測できる。

分かる人には分かればいいのか、というよくある疑問から、万人に分かるものなどあるはずがなく、巨大な商業主義に乗っ取ったポップスが悪しく席巻しているだけ、という話は常識。

それでもなお、老婆心ながらこの先はどうなるのだろう。「正しい」と思った瞬間に「まちがい」が始まることは、世の習い。彼らはこのごろ各地の音楽大学からワークショップや演奏の依頼が多いという。確かに、オーケストラで一人の欠員がありオーディションの度に200~300人集まってしまう現状、自分の代わりはいくらでも居る、という現状は、音大経営にとって避けられない難問だろう。加えて、ヨーロッパの音大では、実技試験だけだと中国・韓国・日本などアジア人ばかりが合格してしまうそうだ。西欧音楽の歴史的な存在意義を担っているのがかろうじてアジアの富裕層というのも皮肉な話。

ミッシェル達の働きぶり(本当によく働く。翌日は750キロ運転してミュンヘンで演奏だという)や日頃の切磋琢磨は疑いようもなく、人柄も温厚かつ時に過激、けっして贅沢はせず、反骨精神も維持。こういうファンファーレのような仕事も継続している。実に正しい生き方をしている。しかも精一杯やっていることで個人的な納得は得られるだろう。

「ゲンダイオンガクはOK」、「民族音楽はOK」、「舞踏はOK」など、ある種の傾向があるし、「間を使い無音のパートを積極的に取り入れる」、「匿名になるような方向」、「決してグルーブ感やメロディは出さない」というような傾向や「流行り」もある。

ヨーロッパ人のメンタリティでは、歴史の突端に自分たちが居る、という感覚から逃れることは難しいのか。ミッシェルがバルカン諸国の極貧国で演奏したとき、聴衆から「なぜ?」と問いかけられた、という話はとても印象的だった。その辺からなにかが開けないか。

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