わかりやすい、ということ

「わかりにくい」ことに怠惰になっていないか?

「わかりやすい」ことに傲慢になっていないか?

確かに、説明するには「小学3年生」に話すように、というのは正しい。

確かに、真実はシンプルなもの、単純に言うことができなければどこかがおかしい、というのも正しい。

「好き」「嫌い」を過信するのは危ないかもしれない、ということを多くの人が気がつき始めている。「好き」に「嫌い」に、させられていることを感じてきたのだ。

「わかりやすさ」というワナもそれに似ている。なんでも「カワイイ」で済ませてしまう文化。「即効性」は店頭販売の常套手段。

ジャンのワークショップでのこと。

「このように攻撃されたときに、こういう風にそのチカラを逃がします」という合気道の所作を実践する。とても「わかりやすい」。攻撃されるという有無を言わさぬ状況での対処法は、ほんの少しのイマジネーションでリアリティを感じることができる。

それに引き替え、「気の道」では、全く同じ動きで、「攻撃」を「出会い」に代えている。そこが「わかりにくい」のだ。

「むんず」と捕まれたら、どんな人でも、何とかふりほどこうとする。その攻撃に対して反撃ではなく、防御をして相手のチカラを削ぎ、螺旋にして飛ばしてしまう、という合気道はとてもわかりやすいのだ。

しかしここがカギなのだろう。ゆっくりと想像力を働かせる、頭では理解できなくても身体が理解するまで待つ、そういうことを教えてくれるようだ。

うんと跳躍していえば、敵が核兵器をもつから核をもつとか、ぶつかると自分も危ないからぶつからないようにする自動車運転のルール、に対する感覚と似ている。

やはりここでも「だって、しようがないじゃない?」と簡単に言ってしまう危険を思うし、「待つこと」「聴くこと」「信じること」の重要性を思う。音で言えば、即効性のある「効果」的な音楽、感情を自在に操作する音ではなく、時間はかかるし、効果的ではないけれど、ズシッと「骨の髄に来る音」、「死を持つ音」を思う。わかりやすい詩もいいけれど、何回も辞書を引かねばわからない詩も大事。

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