エアジンから3月22日の午後『バッハ』にちなんだライブをやらないかという依頼。生誕何周年とかだそうだ。私は音楽学校を出ていないので、(というか、その時期に音楽をやることさえ想像さえしていなかった)初めの頃はクラシックコンプレックスがあった。
もともとの興味もあり、しかもコントラバスという西洋楽器を選んでしまっているので、クラシックに対しては何らかの立場をハッキリしなければならないと思い続けていた。
とりあえず、やっちまえばいい、と思って、クラシックの譜面を神戸楽譜・アカデミアミュージックなどで次々と手に入れ、自己流で弾きまくった。当時、ゲイリー・カー、ルートビッヒ・シュトライヒャーなどが次々に来日。ゲイリーの初来日の時などは一晩で日本のコントラバス界が激震を受けた感じだった。ジャズ界でもミロスラフ・ヴィトウスが来日し、弓弾きで信じられない演奏を繰り広げていた。
あっという間に腱鞘炎になる。それから、自分でメソッドを作り、それに従って時を過ごした。一生懸命だった。
思い出話:
中学の途中から高校の途中まで、親の事情で、広島県福山市に住んだ。広大附属高校に入ると今や福山市民会館館長になっている現代音楽コントラバスのエリート溝入敬三が同じクラスにおったんじゃ(ちょっと広島弁)。思えば、一年上の広大附属広島校には吉野弘志がいたはずだし、作曲家の細川俊夫もいたはず。そしてその福山校には、広大の水産学部が同じ敷地にあり、ちょっと前、坂田明が井上敬三に楽器を習っていた。もちろん当時は自分が音楽をやるなんて思っていない。溝入もバレーボールに熱中していたが、月一で東京にコントラバスを習いに行っていると聞いて、へえ?と思っただけだった。
高校1年ちょっとで東京に帰り、いろいろいろいろいろいろいろいろいろいろあって、大学も終わる頃、ベースでもやってみよう、となぜか思った。敬三さんは芸大を卒業、初リサイタルの準備に追われていた。たまたまお茶の水で出会う。「なつかしいね。ベースやってんだって。ちょっと教えてよ。」仙川のアパートへ何回か通った。そして敬三さんに井野さんを紹介してもらう。
今思えば、自分の方法で自分の必要な技術を身につけていくというアンチ・アカデミズムだった。しかしまだ正統クラシックに対してはコンプレックスを持ち続ける。
家の近所に『騒』(がや)という画廊・ライブハウスがあり、そこをリハーサルに使ったりしているうちに人前でも演奏するようになる。チャールズ・ミンガス、オーネット・コールマンが輝いて見えていた。『騒』の名物だった阿部薫さんが亡くなった月にプロデビューした。
そんな頃、エアジンの梅本さんがケルンから帰ってきて、亡くなったお兄さんのやっていたエアジンを引き継ぐという。その準備期間に、クラシックしか知らなかった梅本さんが首都圏のジャズを見聞して歩いていた。『騒』にも調査に来た。そんな成り行きで知り合った。結婚式の時は梅本さんがウエディングマーチを高らかに吹いてくれたのだ。大成瓢吉さんの絵が金屏風の代わりだった。
その梅本さんから、『兵士の物語』をやるから、ベースやってよ、と突然の依頼。焦る。ストラビンスキーの変拍子満載の名作。指揮者を見てないと分からなくなる。ベースも結構ややこしい。必死にやった。ほとんど覚えてしまった。アンサンブルや話の筋を楽しむ余裕はなかった。ともかく1つクリアーした、という感じをよく覚えている。
コンプレックスがある限り、クラシックの練習は欠かさなかった。時々クラシックの仕事も回ってくる。華やかだったのは黒沼ユリ子さんのアンサンブルで2年、シューベルト『鱒』を中心にクロード・ボーリングの組曲などをやった。この時は多少余裕もあり、ユリ子さんの巨匠的な音やミュージシャン同士の駆け引きなどを堪能することも出来た。アラスカの現代音楽祭では私が特集され、韓国とドイツから私のための曲が作曲された。
そんなこんなの時代を経て、いつの間にかクラシックコンプレックスは無くなっていた。もちろん今でもクラシックは上手に弾けない。しかし、考え方、方法、目指しているものが自分なりに分かってきたしm、また、私自身が音楽に、そしてコントラバスに何を求めているのかが明確になりつつあることもあって、視界は明るい。
では、3月のバッハは何しよう?
もちろんコントラバスの曲は無いし、ソロになりそうだし。結局チェロ組曲をその「舞踊性」を強調して弾くしかないだろうと、思っているところ。また、ブラジルのショーロ、ピアソラの幾つかの曲などは、私にとってバッハと同じだ。そういう対照もやってみたいし、『貧しい音』の完全即興もそこに置いたらどうなるか、個人的に興味津々だ。
冷やかしにおいでくださいませ。午後3:30より。馬車道エアジン。