ラモーン讃 2

かつて、高場さんと連絡を取りたかったらゴールデン街の「ナナ」に、という時代がありました。ナナではアントニオ・ガデスと飲んでいたりもしたそうです。ペルー日本大使公邸襲撃事件の直後にナナでお見かけしたときは、テレビ同時通訳をしたばかりとかで、ワインを飲ませてくれました。表に伝わっていることと、実際に起きていることがまったく違うようなあの事件で、気持ちが複雑に揺れていたのだと推察します。決して愚痴はおっしゃいませんでしたが。

いかなる時も、椅子に座って飲んでいませんでした。バーに身体をあずけながらも立って飲んでいるダンディズム。高場さんなら分かってくれると思い、私が担当した演劇公演やら、即興のライブなどにも聴きに来ていただいたことがあります。ほろ酔いの大きな声で合いの手を入れてくれたりしました。

ギターを弾いていることを初めて知ったのは横濱にあるタンゴ・オルケスタでのこと。その楽団で何回か司会を頼んでいました。高柳昌行さんが入ったり、広木光一さんが来たり、翠川敬基さんがいたり、ピアソラの専門家になった斎藤充正、ファイナルファンタジーの音楽で大成功した人、あがた森魚、いろいろな人が出入りしていました。今やバンドネオン奏者になった田邊義博さんは、高柳さんの送り迎えでタンゴに触れ、人生を方向転換してしまいました。

どういう流れか忘れましたが、高場さんもギターで参加することになり、幡ヶ谷駅頭で待ち合わせ、毎週一緒にリハーサルに通ったこともありました。最初にギターを出したときに5本しか弦がなかったこと、そしてこの楽器がグラシェラ・スサーナさんからもらったもの、とおっしゃっていたことなどを覚えています。

プグリエーセ楽団の大番頭、アルトゥール・ペノンさんが教えに来ていた時、ちょうど湯河原の空中散歩館がオープン、お祝いに楽団で演奏した時も、プグリエーセ楽団が来日したとき合同演奏を中華街でやった時も、高場さんはいらっしゃいました。ともかく、外タレにとって高場さんがいるかどうかが大きな問題のようでした。このわけのわからない東洋の島国では、それはそれは大きな安心なのでしょう。

あるとき、初めて電話がかかってきました。「アストルが亡くなってしまった・・・・・・・・・・」その後、長い長い沈黙が続きました。恐れを知らない当時の私はピアソラの楽団にはいるのだ!と息巻いていて、「tetsu plays piazzolla」というCDを録音して、ピアソラに聴いてもらおうと思って、高場さんに頼んでいました。時すでにピアソラがヨーロッパで倒れ、ブエノス・アイレスに戻り病院生活。意識が有ったのかどうかと言うときでした。私の無謀な希望もちゃんと手続きを取ってくださり、「病院にまでは届いたようだ」と連絡をしてくれていました。

ピアソラ初来日の前、1年くらいの『中南米音楽』(現・LATINA)はとても濃い内容でした。その頃の編集長が高場さんです。来日公演のテレビ番組でNHKのアナウンサーと共にピアソラと歓談している高場さんをひたすらまぶしく見ていました。今や探し回るしかないような重要だが、売れなそうな音源もドンドン日本盤LPで出ていたのも彼の熱意でしょう。

いつのころか、中南米音楽の編集長を辞めて、今度はフラメンコ雑誌「パセオ」の編集長になっていました。リハーサルやライブの後、深夜、車でお送りして「今日はどこへお送りすればいいでしょう?」と聞くとパセオの編集室ということが多かったです。それだけ寸暇を惜しんで編集の仕事をしていたのだろうと思うと頭が下がります。日本のラテン音楽関係者でお世話になっていない人はまずいないでしょう。

ずいぶん会わなくなって、久しぶりに連絡を受けた時に、峰万里恵さんのギター伴奏者として現れました。何回かご一緒して楽しい楽しい時間を持っています。乾千恵さんの『七つのピアソラ』の出版記念で千恵の輪トリオをやったときには、千恵さんが念願の出会いを果たし『タンゴ三兄弟』が結成?されました。そして「七つのピアソラ」のスペイン語翻訳を無償でやってくれました。それを持って千恵さんはピアソラの墓参をしました。

バンドネオンのオリヴィエとのセッションでは、歌の重要性、歌詞の大事さをオリヴィエと確認し合いました。ある時、楽屋でふと「このごろの伴奏者は、難しいことをやりたがる。上手なことをみせたいだけ。それは歌を殺す。」おっしゃったことは衝撃でした。本当にそうだ、と大反省しました。

すべての器楽は、名誉ある「歌の伴奏」として始まり、終わる。ダンスと音楽の関係してもそうなのだろう。

オレでは、そんな高場さんの好きな曲を万里恵さんがセレクトしています。しっかりシンプルに力強く演奏せねば!

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