瀬尾高志が、サルガドとマリオ・ジャコメッリの写真を見比べて「ジャコメッリの方が、何て言うか、詩がありますね。テツさんはこっちの方かな」とふと言った。
詩・詩情を今、身近に置き、それぞれの方法で表現するまで持って行くことは、だんだんと難しくなってきているのか?現実が詩を追い抜いて行ってしまっているのか?
ヴィターリ・カネフスキー監督の3本目「ぼくら、20世紀の子供たち」を観に行く。大きめのユーロスペース1の方に上映場所を移動しているが、通路階段にも、立ち見もでている。
詩と記憶とイメージが縦横無尽にあふれてドキドキさせられっぱなしの前2作と比べて全く違う方法で撮られている。前作、前々作との間と同じく2年経っての今作。1つの奇跡をピークにしたドキュメンタリー映画。
ソ連からロシアになって2~3年のサンクト・ペテルブルグ。カネフスキー自身がインタビュアーとなりストリートチルドレンをどんどんとドキュメントしていく。荒廃しきったロシアの現実と子供たちの真実が次々と映し出される。
刑務所の面会室で前2作主演のワレルカ役に出会う奇跡。もうフィクションかドキュメントかどうでもいい。(が、これは事実だろう。)
どんなに優れた脚本家でも書けないであろうコトバをつむぐ子供・青年たち。特に、ワレルカ以上の歳のギャングたちのもの凄いコトバ。それに対し、アメリカのラップをまねしている10歳以下の子供たちの崩壊された言語。いろいろなインタビューで「うたをうたってくれ」という同じ要求をするカネフスキー。歌を歌うこと、どんな歌を歌うのかは、その人の言語感覚をはっきり表し、何かを信じる気持ちが残っているかどうかの試金石になっているようにみえた。
おバカがもてはやされ、クイズに答えられることが賢いとされ、電車の中でも自転車に乗っていてもメールをして、携帯電話料のためにバイトをしている21世紀のニホンの子供たち、大人たちはどういうコトバをしゃべっている?
グローバリゼーションの中で翻弄される人たち、人間としての約束を簡単に打ち砕かれる現状。特に子供たち、歌も詩や詩情がどうやっても追いつかない所に居るようだった。(「詩なき」サルガドのアフリカの写真がかぶってくる。あの虐殺・飢餓にも詩も歌もありえない。)焼きたてのパンのようにどんどん赤ん坊が生まれていく映像がこの作品の最初と最後に象徴的においてある。
刑務所面会室で前2作での相手役(女優としてやっている)と一緒に第1作の歌を歌うふたり。一人でギターを弾いて歌うワレルカはジャック・ブレルのようだった。歌と詩が、今、どれだけ可能なのか?そんなことを思ってカネフスキーは映画界から姿を消したのか?ブレルも人気絶頂の中突然引退した。
野村喜和夫さんとの徹の部屋、ますます興味深いコトになってきたし、ブラジルの歌たちの貴重さも再確認できた。「いま、君に詩がきたのか」という高銀の詩集があったな。