ああオソロシイ

ちょっと遅く生まれてきたのか、ちょっと早かったのか、ちょうど良いのか、わかりません。私の演奏キャリアは、時代の大きなうねりの後に始まりました。そのうねりの残り香がたしかに有りました。

60〜70年代にかけてのアングラ(今で言うサブカルチャー)を多く体験することになります。ずっと関わった演劇集団「TAO太虚」は、早稲田小劇場・天井桟敷・転形劇場の人たちが多く関わり、ワークショップ「アイコンとしての身体」の講師としてアスベスト館の人たちと交流し、高柳昌行、富樫雅彦さんの「フリージャズ」に誘われました。

「舞踏」、実は好きではなく、というか、露悪なものしか観たことがなかったため、最初に「アスベスト館で、音と身体のことを話してください」と誘われたときも「わざとグロテスクにしているのは好きではないのです」とお断りをしました。「土方は、本当の意味のユーモア(人間性)があって決して露悪ではなかった」というお話を聞き、引き受けたと言ういきさつがあります。

すでに寺山修司さん、土方巽さんは亡くなっていて、多くの人たちが、何かというとお二人の話をする、それを聞いていました。たしかに大変なカリスマだったのだろうと、その様子からもうかがい知ることができました。学生運動も新左翼の内ゲバ殺人の時代で、なし崩し的に影響力を失いつつありました。(住んでいた家の向かいの下宿アパートで内ゲバ殺人があったりして、確かに、熱い時代のニオイはありました。)

時を同じくするようにバブル景気が始まり、狂騒時代に突入、消費資本主義がトップスピードに。すべての「作品」も「商品」になって行く。その流れにはどうしても積極的には入りきれずに、ドロップアウト、ベースを弾き始め、前の時代を引きずっていた舞踏や演劇、ジャズなどに自然に関わっていったというわけです。

フリージャズにはどうしても馴染めずに、ヨーロッパのインプロヴィゼーションの方に強く惹かれましたが、それだけでも満足できず、国内外の伝統音楽や民族音楽に関わったり、自分で作曲もしています。 太田省吾さんが亡くなり、私の演劇の願いは潰えました。 政治で言えば、村山内閣ができて「反体制」というものが、なし崩し的に消えてしまいました。しかし、バブルがはじけようが、お構いなく消費社会はますます進み、ものを作ることよりも消費することに日本中が怒濤のように流れて行っています。

私の細々とした仕事も否応なく時代の刻印を受けます。商品を作るべく音楽を始めた訳ではないので、相変わらず余裕のない生活です。あたりまえです。ノイズも即興も「効果的」なものから商品ラベルが貼られ陳列される。「革命」もCMに使われています。(最近、匿名性に特に惹かれるのは、商品化しにくいからかもしれませんね。)

そんな流れの中、田中泯さん、工藤丈輝さんなど土方巽さんの影響を決定的に受けた人たちとのつき合いの中で、代え難い瞬間をいくつも体験しています。

土方さんの存命中は存じ上げませんが、一回、土方フェスティバルの時に、「肉体の反乱」のビデオにライブで音をつける仕事がありました。おそらく短く編集しているのでしょう、人間の能力を遙かに超えためまぐるしい展開につぐ展開。インスピレーションがこれでもか、これでもかというほど溢れていました。私はそれこそ夢中で演奏をしました。私の演奏をずっと聴いている娘が、「どうにかなっちゃうのかと思ったよ」と心配したように、ほとんど狂ったように(踊らされていた)演奏させられていた、という体験でした。

明らかに自分より先に行っている人との共演では、時々起こることですが、その中でも特に印象深い経験でした。しかも相手はビデオの中。やはりタダモノデハナイという思いを強烈に受けました。最近聞いた話だと、「肉体の反乱」上演時は、わざわざ「上手に弾けない」ピアニストを使ったそうだし、映像化したときはビートルズの曲を常識を遙かに超えた音量で付けたということです。ああ、オソロシイ。

いろいろと資料を集めてみました。「夏の嵐」「恐怖怪奇人間」「卑弥呼」、何冊もの本や写真集、しかし一番衝撃だったのは録音「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」でした。

イヤたまげた。音だけなのにほとんど舞踏のようです。彼を一番近くで観た気がします。(普段は、あんまり近くにいて欲しくはないけれど・・・・)ああ、オソロシイ。

土方さんは、「商品」になろうが、へっちゃらなのでしょうか。それは何故?

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