徹の部屋Vol.4(続)

2日間ずっとポレポレを引きずってしまっていて、いろいろなことを確かめねばと思っています。

まず、第2部のような雰囲気から始められないのか?ということ。というのは、この2部は確かに2人のセッションでは初めての現れた空間で、静謐な時間がしばらく続き、ゾクゾクした。欲張りな私としては「この先を体験したい!」と直ぐ思ってしまう。第1部(リズムを強調したもの)があってからこそできた、ということを忘れがち。「良かった」時は、それ故に、罠になってしまう。気をつけねば。

そもそも音を出すことは、そこに目的があるのではなく、音が終わった後の無音のためにあるのかもしれない。「汚い」ノイズを執拗にだすのも、そう。情報にまみれて、商品にまみれてしまった現代に、身体でも心でも「無音」を目一杯、味わうためには、「汚い」ノイズが必要になる、と言える。大切な「記憶」を「思い出す」ために、分厚い「かさぶた」をむしり取る必要がある。

特にノイズに限ったことはなく、リズムやダンスの祝祭感覚、身体的な発散も、そう言う意味で考えてみると気がつくことが多い。大事なのは「あと」。

そう考えると、良い演奏をしたい、良い絵を描きたい、良いダンスをしたい、ということは、(時々)邪魔になる。たとえ良い演奏が出来たとしても、そこで満足してしまい、終わってしまう。良い演奏をするために膨大な時間とお金をかけ楽器を練習してきたじゃない?という「自己表現」の罠。「聴くこと」「待つこと」「信じること」の否定。

他のジャンルの人と一緒に演奏するときに、そのことが顕著になる。良い演奏をしたい、良い絵を描きたい、良いダンスをしたい、と思っているだけでは、場は味方してくれない。他人には出来ない技を特化して、お金に換えて、個人の名前を売り、取引する、というのが世のならわしだが、そこに「カミサマ」は居ない。

裕児さんが終演後、即興に興味を持つ絵描きさんと話をしていて「ライブで描くのは、アトリエで描くのと違って、絵を自分で所有しないということです。」と言っていた。

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