信州へ

蓼科・松本・長野と回ってきた。

いつも夢見がちなオトコと、懸命・賢明に生きているオンナを感じる旅だった。

ダルースの松井恵美子さん、アッシュ・アールの石川利江さん、画家の小山利枝子さん。

こんな人たちに会うわけだから、私は娘を連れて行った。会わせたかったのだ。

松本で若いベーシスト対象のワークショップを昼間やって、夜ライブ。ベースのワークショップに関しては、私にも夢があるし、世界中で多少の経験がある。そのエキスを何とか伝えたかった。そのため、かなり前から、ワークショップ成功のためにコミュニケーションの大事さを訴え、メーリングリストを作った。

井野さんの協力を仰ぎ、ビデオも作った。(これは実に傑作。笑いが止まることないほどおもしろい。)プリペアードの部品も作り、スティックも削り、楽譜も作り、音源もコピーして送った。いかんせん、学生のリアリティが追いついてこなかった。ワークショップ、ライブ終了後の彼らの興奮は、想定内だったが、どうしようもなかった。この経験が将来生きるためには、彼らの自発的な行動を「待つ」しかない。過去は未来が変えていく。すべて「今」からだ。やり直したかったら、今、変えるしかない。このまま放置しておくと、腐ってしまうだろう。反省するのが「好き」なだけの「良い人」にはなってもしかたない。

それにひきかえ、松井さんのぶれない姿勢は見事だった。目標を定め、しかも、その都度現実に柔軟に反応し、出しゃばらず、相手の出方を待つ。「待つ」ことは「信じること」であり、そのために「聴く」のだ。

松本の蕎麦屋「三城」、ここの着物の女将も見事だった。蕎麦屋であることも表示していない、メニューもない、BGMもない、ただ、自分のできる範囲で動き、一番良いと信じている物を提供するだけだ。

裏通りでホーミーが聞こえた。近寄ってみる。本屋・古本屋・八百屋・花屋・乾物屋・CD屋・楽器屋を兼ねた店から流れている。年に一回はモンゴル・チベットを訪れるというご主人は、我々同様、夢見がちなオトコ。もともとは札幌だという。

長野では、聴衆のチカラを受けて演奏をした。昨年、七つのピアソラで演奏したギャラリーでの演奏だったので、特に音楽ファンが集まっている訳ではないが、こういうところの方が、音の受け入れ先としては柔軟だ。昨年は未完で、アトリエでの描きかけの絵の前でジャンやオリヴィエと遊んだ小山利枝子さんの絵が、しっかりと完成されていた。その前で演奏できるのは、本当の意味で喜びだ。背後から絵が、眼前からは聴衆が何かを送ってきている。ドンドンいけそうな自分を感じる。

そんな場所をプロデュースしているのが、地域文化活動に余念がない石川利江さんだ。一刻一刻を戦っている。この日は、とても喜んでくださり、ご自宅へのお招きにあずかった。小山さん、小山さん娘、ギャラリースタッフ、石川さんが揃うと、もう大変。盛り上がった話は止まる瞬間すらない。私と井野さんがコトバを入れる隙がない。二人してベランダで夜空を愛で、UFOを追った。

こういう人たちに演奏を喜んでいただくことは、本当に嬉しい。彼女らは、音楽状況の流行り廃りなどの現状など全く知らない。そんなの関係ない、そんなの関係ない。同時代に生きているということ、同じ空気を吸っているということは、それぞれの分野で同じ問題を戦っていると言うことなのだろう。彼女たちの発見は、とりもなおさず私たちの発見であるはずだ。

打ち上げ帰りがけに、私の娘と小山さんの娘(新妻)に石川さんから着物の贈呈があった。同じように背の高い私の娘には黒でピンクの花、小柄な小山娘さんには、紬。直感もあり、そして充分に考えた結果だそうだ。そうやって伝わっていってほしいという願い。文化、想い。

人はパンのみにて生きるにあらず。善光寺ご開帳で賑わう街を歩きながら、そう思えた。嬉しい気づきの瞬間だった。

娘は、良き先輩達にあって何を感じたのだろうか・・・・

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