ゲンブリと散歩

ちょっとした罠に引っかかりました。

ペソアは1935年没、アマリア・ロドリゲスは1920年生まれなので、ペソアがアマリアを聴いたことはないでしょう。まして、あのコンサートにいたはずはないわけで・・・

それにしても、なぜあのLD「涙」の最後にあの言葉を挿入したのでしょう。歌にグッと来たあとはコロッと引っかかってしまいますよ。

このところ、ゲンブリの音を聴きながら散歩してます。ジャッキーとのデュオに合わせてのこともありますが、このグナワ音楽は、歩くのに適しています。昨年の千恵の輪トリオの準備でひたすらピアソラを身体に流し込んだのですが、これが歩きづらいことこの上ない。ましてやこれで踊るのは大変のはず。

ビーバップが出てきてジャズから踊りが離れてしまい、その乖離をロックが引き寄せた。フリージャズから民族音楽へ傾きもその流れにあるのでしょう。基本的に人は歌いたいし踊りたい、けど今・ここで何を歌う?何を踊る?自分にフィットするものを探し、外国の音楽に一生を捧げる人も多くいる。

ゲンブリを使って所謂ワールド・ミュージック系の音もずいぶん流行しているようだが、それらはゲンブリを大々的に拡声して、エレキベースの役割に押し込めてしまっているので、面白さが半減している。それより、なぜ長年にわたってゲンブリがソロあるいは、簡単な打楽器とだけ演奏されてきたのかを考える方が面白い。

太い弦、弦に触れる時の微妙な揺れ、複雑で豊かな倍音、12音平均率からずれている音程、必ずしも大きな音でなく、耳を澄ますように音を聴く状況、そういう面を活かすには、より高い音のほかの楽器を入れない方が良い。空間をほかの楽器で埋め尽くさなくても、倍音だけで埋まっているのだ。深くものを見つめる、内へのベクトルの乗せるには低音弦の得意とするところだろう。

6日の徹の部屋では、そういうことを色々と試してみたいと思っています。

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