またまた引き続きます。
例のペソアの言葉の英語の訳をたまたま見つけました。(ペンギンクラシック)
不穏の書(The Book of Disquiet)の259番
” I have no social or political sentiments, and yet there is a way in which I’m highly nationalistic. My nation is the Portuguese language.”
日本語訳とほとんど同じでした。国はnation、country、 stateといろいろ訳がありえます。そのあたりのことも語源・歴史を調べると色々ありそうです。
つづけて書いてあるのは、「ポルトガルが侵略されたり、占領されたりしても私が平穏ならば、どうでも良い。しかし、私が本当に憎むのは(私にとっての唯一の憎しみ)悪いポルトガル語を書く人でもなく、文法が間違っている人でもなく、語源からではなく音で使っている人でもなく、ひどく書かれたページそのものだ。」と。
いやはやこれだけ訳すのでも神経を使いますな。翻訳家は本当に大変な仕事です。
昨年メキシコにご一緒させていただいた野村喜和夫さんはよくご自身のことを「国語国文学的身体」と言っていました。むむ。
前回も最後に取り上げたアマリア・ロドリゲスのライブでは「祈り」というファドが歌われています。大統領も観に来ていたライブ。
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海辺で死ぬだろう
このからだが海の泡に覆われて
まるで羊たちの真ん中で
溺れ倒れる羊飼いのように
街角で死ぬだろう
突然道を失い
月のない冷たい夜
街角の石ころのように
人々に踏まれて死んでいく
鉄格子の中で死ぬだろう
牢獄に閉じこめられて
外の世界のことは
忘れていくだろう
心をむしばむ孤独を
ベッドで死ぬだろう
そこでの死は
自然なこと
胸の上で腕を十字に組んで
神の手を受け入れて死ぬ
何処でも良いから
ポルトガルで死なせて
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この最後の言葉には私にもグッと来ます。ポルトガル語を祖国としているペソアには、いかばかりか。
これですぐさま思い出すのは高銀さんの詩「臨終」
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ニムよ わたしは西方浄土には行きたくはありません
いくたび死んでも この国にとどまりたいのです
死んで この身は土になり
土や風になっても
それでもこの国の風になり
魂は凶暴な死霊(鬼神)となっても
この国の山河にとどまりたいのです
こうして幾千年もさまよえば
死んだものにとってこの国そのものが生になるでしょう
栄山江の岸辺、ノルメのせせらぎにもさまよい
いかれなかった大同江や牡丹峰の上をさまよって
鳥が鳴けばわたしも泣き
この国の涙となり
深夜の酒となって
すべての溜息を酔わせましょう
この国に生まれたということは
この国をさまようためで
それ以外のことをするためではないのです
ひとつの悲しみは千にも万にもちぎれてそれぞれの悲しみになるもの
沈む月明かりに寝入るようにして
西方浄土には行きたくありません
いくたび死んでも
この国の最後の夜を見とどける死霊(鬼神)になりたいのです
水が凍り 冷たい風が吹いても
ともに氷の下の水となり
ともに風の痛みをうける風の音になりましょう
この国の土や草
黄土の丘に眠る松の木も
幾千年の歴代に死んでいった祖先とともにあるもの
いくたび死んでもいっしょにいたいのです
降りしきる雨のひとしずくで
この国の日陰の草をそだてたいのです
ニムよ わたしは死んで西方浄土へは行きたくありません
そこへ行くなんて そこへ行くなんて
どうして西方浄土になど行けるでしょう
死んでもこの国の死霊(鬼神)になるのです
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私は日本で死にたいか?
「死」と「生」が同義であるとすれば、
私は日本で生きたいか?
戦争好きな右翼に引っ張られないようにしないといけませんが。
biscoito fino(最後のビスケット?)という優れたブラジル音楽を続々と出し続けているレーベルのオーナー、Francis Hime フランシス・イミさんの作品「聖セバスチャン・リオデジャネイロ交響曲」http://www.biscoitofino.com.br/bf/cat_produto_cada.php?id=10。
うらやましいくらい(ちょっとはずかしいくらい)誇り高くリオを歌い上げています。
今、私に東京賛歌は作れないよな。身を捨つるほどの祖国はあるか?
最後に残るのは「日本語」。
なのか