ラ・ゴロンドリーナ(つばめ)

モケラモケラでの五井先生最終講義のための選曲をしていて、この曲を思いついた。

メキシコの第二の国歌とも呼ばれるラ・ゴロンドリーナは、メキシコ民謡として親しまれ、日本でも 訳詞 青木富美子 補作 サトウ・ハチローとして知られていた。最近では、ブラジルのカエターノ・ベローゾが中南米のスペイン語名曲集「粋な男」で取り上げていた。メキシコ特有のマリンバが美しい編曲だった。

南の国を離れて つばめは微風とともに

今年もわが町を 目指して飛んで来た

苦しみ悩みを 耐え抜いた姿

おゝ つばめ ラ・ゴロンドリーナ

涙を風に投げ捨て 楽しく飛び回る

苦しみ悩みを 耐え抜いた姿

おゝ つばめ ラ・ゴロンドリーナ

涙を風に投げ捨て 楽しく飛び回る

南の歌をつぶやき つばめは今日も窓に飛ぶ

小さなわが町に 輝く春がきた

ちらつく影さえ 懐かしい姿

おゝ つばめ ラ・ゴロンドリーナ

翼に夢を描いて やさしく飛び回る

ちらつく影さえ 懐かしい姿

おゝ つばめ ラ・ゴロンドリーナ

翼に夢を描いて やさしく飛び回る

曲のスケールの大きさ、品格からみてちょっと違和感があったので、毎度お馴染みの高場将美さんに聞いてみた。

民謡でも何でもなく、作者もはっきりしている。

ベラクルス生まれのナルシソ・セラデル・セビージャ(1843~1910)は医者であり、作曲家でした。フランス・ナポレオン三世がアメリカ合衆国に対抗して、名門ハプスグルク家のマキシミリアンをメキシコ皇帝に擁立しようとした所謂メキシコ出兵に反対したサラゴザ将軍と共にフランス軍と戦い、捕虜となりフランスに送られます。さまようツバメの歌が追放されたメキシコ人の間で評判となり涙と共に愛されました。今日でも集まりの最後にみんなでよく歌われ、メキシコの第二の国歌のように成っています。(結局、フランス傀儡政権は、3年間治めましたが、最後マキシミリアンは断頭台に消えます。)

以下高場さんのメールより

この曲は、昔のメキシコの憂国の志士みたいな人が作りました。・・・・・・・・・古いものなので、ことばづかいは古風ではありますが、1950年代くらいまでのポピュラー曲でも、このくらいのことばは使われていました。つまり現代人でも、かなりおなじみの単語ばかりということです。最初の部分の固有名詞について、わたしはちゃんと調べてないのですが、きっと昔スペインの再征服によってグラナダを追われた、モーロ人の偉い人なのでしょう。

この最初の部分は、今日では、ほとんどの場合省略されます。長すぎると感じられるからでしょう。また、余分な気もします。わたしの訳はこなれていませんが、原文も(これほどではないですが)説明的過ぎる感じです。

いまでは、より軽く解釈して、愛する人への別れのセレナータとしても歌われます。

アベン・ハミッドはグラナダを去るとき

彼の心臓が壊れているのを感じた

そして彼方のベガ(グラナダの沃野)が見えなくなっていくとき

弱弱しい声で彼の嘆きを口に出した

「数々の愛をやどした館よ 空の天国よ

わたしはおまえの中で生まれ 千の幸せを味わった

わたしは発ってゆこう 遠い地へ

そこから 二度と帰ってくることはないだろう」

どこへ行くのだろう すばやく飛び 疲れたようすの

あのつばめ ここから去ってゆく

あの空の彼方で道を外れてしまうだろう

守ってくれる場所を求めて でも見つからないだろう。

わたしの寝台のそばに わたしはあのつばめの巣をつくってあげよう

そこで(寒い)季節を過ごせるように

わたしもまた この地に道を失っている

おぉ なんたることか! わたしは飛ぶことができない。

わたしもまた こよなく愛する祖国を去ってきた

わたしの生まれるのを見たあの館を

わたしの人生は きょう愛することと苦悩に満ちている

そしてもう わたしの館には帰れない。

愛する鳥よ いとしい巡礼よ

わたしは わたしの心臓をおまえの心臓に重ねよう

おまえの歌声を聞こう 年若いつばめよ

わたしは祖国を思い出し 泣こう。

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全く違うモノですね。

「補作」っていったい何なのでしょうね。

「外国」が遠かった時代に、いろいろなことがなされてしまったのでしょうか。そういうやり方で外国の文化が入ってきた日本。歌に限ってもこんなことが行われていたとは。よく、検閲をすり抜けるために、コトバに違う意味を持たせて作詞することもありますが、そうでもない。

やはり、実感を伴った母国語で、骨の髄にググッとくる歌がほしいものです。

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