contrabassとbutoh

よく「舞踏とよくやりますね。」「舞踏にあってますよね。」と言われる。しかし私は元々、ある種の舞踏のもつ露悪は生理的に受け付けなかった。わざと汚く装い、照れや恥ずかしさを逆転させ、グロテスクな様子を見せつけたり、全裸になったり、いまも大嫌いだ。最初にアスベスト館の「アイコンとしての身体」というワークショップの講師に誘われたときも、元藤さんに、臆せずにそう言った。「いやいや、土方巽の踊りには、真のユーモアがあって、汚さはみじんも感じられなかったわ。」との言葉で、そう言うもの見たさに講師を引き受けた。

 「真のユーモア」にはなかなか出会うことはなかったが、演奏を喜んでもらったり、60~70年代を知る人からしか学べないことを聞いたり、普通なら出会えない人に出会えたりして、いくつかの関係が継続してきた。工藤丈輝もその一人だ。

 舞踏というものが、うわべの楽しさを拒否して、禁欲的に身体・人間を追求する。その先に、真のユーモアが見えてくるものだとすれば、そのベクトルは、音楽での楽しさを素直に受け入れず、「音楽」になる直前を楽しみたい、として即興演奏している私と、どこかで通じるのかもしれない。その作業を長く続けるには、ある種の「かろみ」や「自然な振る舞い」まで到達する熟練と、決してぶれない気持ちが必要になる。

 コントラバスは、音が出にくい部類の楽器だ。私が、それをさらに弾きにくく調整したくなることも、何か関係がありそうだ。ただ「弾きにくくする」ために、そのように調整するのではなく、一つの音をより十全に鳴らそうとすると、そのような調整になる。ギター雑誌をめくると、腱鞘炎の治療の宣伝が多く見られる。ギターは弾きやすい楽器だから、ともすると弾きすぎることが多いのだろう。この音が必要だからこの音を出す、という基本を越えて、動機のない音のために指を過多に使えば、身体から復讐される。

 その点、コントラバスは弾きにくさによって「救われ」ているのかもしれない。即興演奏においてコントラバス奏者が目立って多いのも何か関係がありそうだ。舞踏では、すんなり動くことはあまりない。ただただ直立する、普通の100倍遅く動く、そうやって「立つ」こととは?「動く」事とは何か?身体とは何か?人間とは何か?を問うている。

 身体はもともと限界だらけだ。その限界を弱点とせずに逆転させ、空を飛び、地中・海中に潜り、過去に遡り、未来を幻視させ、身体を消し、息を止める。それに対応するコントラバスは何だ? 音は周波数、波形などで科学的に分析できる。分析がムズカシイ「音色」だってノイズだって細かく分析することが出来るだろう。DNAが四つの要素の組み合わせだけでなりたっていて、その結果として身体があるのと似ている。トランジスターも自然(石)から出来ているし、微生物を利用する集積回路もあると聞く。アナログかデジタルかという分類ではムリ。

いくら「汚い」ノイズを出しても、それが「露悪」に成らず、ユーモア(人間性)を感じさせるものにするために、楽器の修行は果てしなく続く。がらくたをこすれば誰でも簡単に出る音を楽器から出すために膨大な時間をかける。そして、長い時間をかけて人間が培ってきた「歌や踊り」と交差するところを見たい。私の中の「即興演奏」とブラジル音楽、タンゴ、韓国音楽、能楽、フォルクローレ、ジャズ、ファド、などなどがクロスする曼荼羅を見たい。何のため?人と、自身と、自然とコミュニケートし、ひらめいて、きらめいて、生きていくため。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です