工藤丈輝とのデュオが近づいてきました。
二十年やるということで昨年始めましたので、終了時には私は72歳、工藤丈輝は60歳。皆様それぞれの20年と合わせて立ち会ってみてください。
昨年書いた二人のコメントを再び載せます。
注:名前が載っていた12/12スーパーデラックスでのイヴェントには、私は出演しません。(工藤丈輝は出演します。)
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齋藤徹
「一生で一つの歌が歌えればいい」、「一生でひとりの最良の聴衆を見 つければいい」という考え方と「なるべく多くの扉を開けていたい」、 「ジャンルにこだわらずに広く経験してみたい」という考え方があり、 その二つの間を行ったり来たりで30年やってきました。
とりあえず私が判断するのは、世界中どこであろうと一人で立っていら れるか、と言う基準でした。それが実現できれば、その二つの目的が一緒になれるかと想像しました。長年やっていると自分の才能の限界は自 ずと見えてきます。それを超えるには、人や自然の力を必要とします。
それらが鏡となって、知らない自分に出会え、人や自然と繋がることが 出来ます。(人も自然の一部ですから分けることはないかもしれませ ん。)それこそが「自己表現」でなく「自己実現」であって、結局はそ れを求めていると考えています。
工藤丈輝とは随分前に演劇公演「白髭のリア」第三部(劇団 TAO)で会いました。リア王(若松武)の娘コーデリアを演じていまし た。私の担当した音楽は沢井一恵(箏)、板橋文夫(ピアノ)らと毎回 ライブで行いました。コーデリアの登場シーンは印象的でした。
彼は、私のちょうど一回り年下です。本来とても素直なのにどこか世の 中を斜めから見ているようなふりをするのが微笑ましいので、彼に会うとつい、いじめたくなってしまいます。九州ツアーの時は「脱がない、 塗らない」で踊ってみてよ、と言ってみました。彼はしっかり実行しま した。
私は彼が「舞踏」ダンサーなのか、「モダン」ダンサーなのか、「コン テンポラリー」ダンサーなのか、「役者」なのか知りません。私が観たいのは、ダンサーであることも「工藤丈輝」であることも関係ない、た だ一人で立っている人間です。それは当然私自身にも言えることです。
彼の顔をよく見ると、右半分と左半分が全く違うときがあります。良い 状態の時は統一した顔になるようです。自分の中に居るいろいろな人格が出てきて戦っているのかもしれません。一年に一回、何年も、彼との デュオを、同じ場所でやってみたい、と思ってこの企画を立てました。
毎回、どんな顔でヤツが現れ、どんな顔で別れるかが楽しみです。(私 がどんな顔をしているかももちろん自分で楽しみです。)
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工藤丈輝
先ごろ仏国ナンシー市郊外の丘陵にある巨大なワイン倉で公演したときのことだ。いかようにもこの空間を料理してもよいと言い渡され、三四日の立ち上げ期間が与えられた。スタッフもいまだ到着せず、暗く薄ら寒い埃だらけの地下空間にひとり、「作品」を持ち込むべく思案していた。振付も音楽構成も照明プランもある。空陸の長旅に疲れ呆けた頭はそこに通念を当てはめようとしていた。一日二日と日の大半をそこで過ごしているうちに演出の方針はほぼ定まり、あとは機材を持ち込んで本番態勢かというとき、すでに空間が音で充満していることに気がついた。丘の斜面に水の染入る音、無数の菌類が息づく音、古びた石の壁面が剥離する音。無音どころではない。無音は劇場があえて作り出すもので、自然はものみなの奏でる音楽で騒がしいほどだ。私は録音された音源の使用を断念した。
自分のかかわる身体表現にも同じことが言えて、見かけの動作が皆無であることは静止とは違う。止まっているようであっても存在のすみずみから饒舌に音の漏れ出てくるような人物もある。手振り身振り百万語つくした結果、何も語りかけてはいなかった身体もある。労多き床運動を称して踊りと呼ぶ向きもあるが、実存の奥処から沈黙をもとに生み出される行為こそ貴い。
およそ健やかに生い立った踊りには分かちがたく音楽が伴っているものだが、斎藤徹との共演の場合、立ち現れてくるものは別の意味合いをおびる。……音楽やそれを産む楽士を焦がれるように探していた時期が長い。が、現在では沈黙の中に音の胚胎を見るほうがよほど面白い。「音を使う」などという独善的なやり方はむしろ飼いならされたプロセスに従っているまでのことだ。すでに純粋ではない。
東京、広島、ワルシャワ、…斎藤徹とはすでに多様な場をともにしてきたが、持続的な作業というのではなく偶の邂逅が多かった。私のデビュー時、斎藤氏はすでに幾多の音楽監督つとめる高みの人で、稽古場でどれほど氏の音楽を聴いてきたことか。いわば、私の踊り手としての存在を形成してきたトレーナーのような人物である。
個我で塗り固められたスタイルを打ち砕いて、何もない実存の荒野や、そこで行われる破壊や生成の現場に連れ出してくれる人こそ斎藤徹であると私は信じている。