「とおる」から「てつ」へ

「とおる」時代。

二つ前のブログで登場した楽器職人の漢字表記が間違っているよ、との指摘を受けた。鈴木「哲」さんと書いたが本当は鈴木「徹」さんでした。全く私と同じ漢字と読み方だったわけだ。

私が「とおる」から「てつ」に変わったのは小学校入学の時。ある晩、祖父母・父母がいる居間に呼ばれ、「明日から(てつ)だ。いいな。(とおる)はまどろっこしい。(てつ)で行け。」と言われた(様な気がする)。何のことかよくわからなかったが、そう言うものなのだろうと思った。言われた後、自分の部屋へ戻る時、廊下に延びる障子越しの光の白黒映像が記憶にある。

いままで、「とおるちゃん、あそびましょ」と言われていたのに、ある日「テッちゃん」に変わった。とおるちゃんはひらがなが似合うが、テッチャンはカタカナがなじむ。戸籍はどうなっているのか。

姓名判断とは何だろう。いや、そもそも名前とは?名前を名乗り続け、呼ばれ続けることによって仮面(ペルソナ)のようにその人を規定していくのか。そうすると、「とおる」から「てつ」になったことで私の人生は変化したか、親が願いを込めて名前を付けると願いが通じるのか、親は私に対する願いが変わったのか?

この種の話になるとどうしても思い出すのは、I・Sという同姓・同名・同漢字の二人の男だ。ほとんど同時期に私の前に現れた二人は、演奏家ではなく、プロデューサーとして別々に、私の音楽に関わり、急激に関係が密になり、ある程度の成果を上げ、私の音楽人生のエポックを作り、同じように仲違いをして分かれた。今は、二人に会うのさえ避けたい。

一人だけ「齋藤徹」に会ったことがある。今は別性を名乗っている編集者。大きな病気をしたが見事に復活。吉本隆明と栗本慎一郎の対談を仕掛け、本にした。病気の時には湘南にあった書店を手伝ったこともあった。「斉藤哲夫」というフォークシンガーが短い期間だったが近所に住んでいて、郵便物が間違って配達され、先方のポストへ入れに行ったことがある。果たして、私と彼らの接点はあるのでしょうか?

まあ、いい加減にしておきたい話題ではある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です