お〜い、神様。

顔合わせセッションは苦手だ。

などと言っていると仕事が減る、けど仕方ない。

「誰誰と共演」なんてのはまるで興味がない。

やる方も、プロデュースする方も、組み合わせばかりに熱心な昨今。

まるで、グルメが素材を合わせて喜んで、そこで料理されて喜んで・・・・

一人で立っている者同士が、時に恵まれ「今だ」という時に、出会って初めて「共演」になるはず。

その時は共演する「必要」がある。いや、共演しなければいけない。なぜかって?当人の為ではなく、音の為に。音が出たがっているのを妨げてはいけない。言い方を変えれば、同じ相手でもいつも共演できる訳ではない。

聴衆の数に比べて催しの方が圧倒的に多いのは事実。

勝ち残るためには付加価値が必要。さまざまな物語をキャッチコピーにする。ノン・ジャパニーズの参加は有利だ。

かつてはレコードでやっと情報を得ていた有名演奏家が実際演奏する。それも高くもないギャラで。

ヨーロッパの彼らの多くは、アンテルミタン制度(パフォーミングアーティスト失業保険)で毎月、補助を受けている。(家賃など最低の生活が出来る分)プラス、いろいろと助成も受けられる。日本に来たって、交通費・宿泊費・ギャラすべて国から出ているなんてこともある。(ライブ何回、フェスティバル何回に出たという証明さえあれば良いということも身近にあった。)もともとの文化に対する理解の違いもあるし、彼らも戦ってそれらを得ているのだから、素直に評価したい。

それに対してこの国では、日常的な助成は一切ない。

いや〜困ったね。何とかサバイバルしてじっと中身を充実させ、時を待ち、まだ見ぬ共演者・聴衆を待つ。会えるときは会えると信じて。

いや、そんなのはイヤだ、待てない、忙しい、面倒だっていう人たちは、どうする?

「○○とやっておくと何かと良いですよ。」

「今なら、○○と安くやれますよ。」(共演者を買う!)

と言われた、とごく身近なミュージシャンに最近聞いたばかりだ。

私がノン・ジャパニーズ・ミュージシャンを招聘中、スケジュールを調べて「○日、空いているようだけど、一日貸してくれない?」と電話があったのも事実。売春・買春・人身売買の話ではなくライブのブッキングの話なのだ。

そうか、なるほど。

ほんの5分、その場にいただけで「○○と共演」だって。言うよね〜。

共演したから、同じレベルになったような錯覚は幼稚すぎるでしょう。勲章をこれ見よがしにいくつも付けて喜んでいる軍人のようです。ほんの2回習いに来ただけで「○○に師事」とプロフィールに書く。師事って何?英語でいうと「study with~」でしょう。修練するのはその人、その場にいてその人が気づかない示唆をあたえるのが「先生」の最大の役目、それ以上でもそれ以下でもない。「先」に「生」まれただけ。エリートクラブにはいっているような幻想を持ってはいけない。政界や芸能界・社交界じゃあるまい。

そういうプロフィールを鵜呑みにして仕事を依頼する事実、そうして何より、それで成り立っている現実があるからこういう状態になっているのだろう。中身は関係ない。どっちもどっちの浅はかな状況。自分で自分の首を絞めていることを知るべき。

最近、古今亭志ん朝の映像をいくつか観た。当時の志ん朝さんのまわりは華やかで楽しそうだったろう。しかし浮ついたこと一切無しに、きちんと厳しく彼の芸を見守ってきた聴衆、それに答えるべく稽古を怠らなかった師匠、そしてそう言う場を提供していた関係者、その真剣勝負の関係がこの芸を生んでいる。健やかな関係。

音は怖い。自分の所有物でも、素材でもない。軽率に扱っていると必ずしっぺ返しを食う。端的に言えば、身体や心をこわす。実際、私も身体をこわした。「私は何もわかりませんから」で逃げられない。シーンを作って志高く切磋琢磨することが大事と思うのだが。また、そんな青臭いことを、と言われるか。「そんなことはわかっている。当たり前だろう。わかった上で、その世界でサバイバルするためにあえてこうやっているだけだ。子供じゃないんだから。」と言われるか。

自分の目で見て、自分の耳で聴いて、自分の頭で考える。ただそれだけ。「天網恢々疎にして漏らさず」なんて古いか。そうか、神様がいなくなっちまってからこうなったのか。お〜い、神様。

ザイ・クーニンがバリのダンスの師匠のコトバとしてこう言っていた。

「私たちは、一生をかけて、たった一人の聴衆を見つけるために、仕事を続けるのだ」と。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です