若尾裕著「音楽療法を考える」(音楽之友社)という本はいろいろな示唆に満ちています。若尾さんは音楽療法と言う立場から、即興音楽を捉えての意見をさまざまな形で述べています。即興(ならびに即興音楽)についてよく目に触れる文章があまりにも語彙の貧弱な、机上のものばかりで辟易していましたからこの本は嬉しかった。彼は奥様の久美さんと共にmesosticsで活動をしておられます。ピアニスト、作曲家、教育者ですが、昨年のフレデリック・ブロンディの来日ツアーの時には、神戸でのセッションを主催してくれました。毎夏に独自の即興音楽のフェスティバルを開催しています。
友人ミッシェル・ドネダがバスクの歌手ベニャート・アチアリさんとデュオCDを作ったときにジャケットに使われていた文章は美術家ジャン・デュビュッフェさんの即興に関する本からのものでした。アール・ブリュ(生の芸術)やエーブル・アートとして最近脚光を浴びている領域の先駆者です。御自身が即興演奏しているCDもあります。デュビュッフェさんについてもこの本では言及しています。
私もこのところ養護学校や家庭学校、社会福祉法人、聾唖者との演劇、劇団「態変」とのワークショップ、機関誌へのエッセイ、岩下徹さんとのワークショップなどなどさまざま経験をしてきました。本当に多くのことを学んでいます。即興の可能性もその中で考えたこともあります。
障害者だからということではなく、一対一の人間同士として向き合うしかないというのがすべてに共通して言えることでした。何かを教えるとか、情報を与えるとか、良くなってもらう、とかでは全くなく、音楽というものを乗り物にして、五感をめいっぱい張り巡らせて、何かを感じる・発見する、「ここ」に一緒にいるという感覚を共有するということが大事なことでした。
アメリカのコントラバスフェスティバルで「上手でない」プレーヤーを集めたワークショップをしました。どうしても「上手」な人たちがもてはやされる状況で、テクニカルなものを上手く弾けなくても、方法さえ見つかれば思いっきり楽しく演奏できるし、良い音楽ができるのだという経験を分かち合いました。音楽が好きでコントラバスが好きで楽器を始めた時の溌剌とした気持ちを思い出して欲しかったのです。思えば、世間的に「できの悪い」人たちに対して方法を発見・共有することが先輩や教育者の勤めでしょう。「うちの子ったら、あんなに嫌がっていたのに、このワークショップにでるようになってから、いそいそと出かけるんですよ。」とプレゼンテーションの後に親御さんから言われて嬉しかった思い出があります。
札幌の「漢達の低弦」というコントラバスアンサンブルは、所謂ジャズベーシストの集団です。東京の音大出身のプレーヤーもなかなか出来ない譜面をみんな必死で練習してきました。「こんなの絶対出来ない」と最初に言っていたものを気がつくと暗譜して弾いています。弓を弾いたことのない人もいました。何とかやってきたのです。これにも感激しました。「クラシック」音楽に対する暗黙の優越感と劣等感などは意味のない障害にしかなりません。時間がもったいないだけ。やればいいのです。
アメリカでも札幌でも注意したことは、テクニックをひけらかすような「自己表現」はなるべく避けるということです。「自己表現」という意識こそが邪魔をしていることが多い。歯車の一つになる、で良い。耳を、身体を、五感を開いて、その場に「居る」ということがどれだけ大事かを実感してもらうのです。即興の大事なファクターです。
旭川の「女達の一弦」というワークショップも面白かった。音楽の演奏をしたことがない人たちにそれぞれ思い思いの一弦の楽器を作ってもらってアンサンブルを作り上げるというものでした。その自作楽器は世界中に似たものがありました。祈りのため、自分の心のため、捧げるため、など音楽の原初的な姿を見せてくれました。それぞれ個人個人が唯一無二の存在であり、万世一系の存在であることを教えてくれました。
音楽はプロに任せて、自分たちは享受する側ということが、有無を言わさぬ暴力的な資本主義によって押しつけられています。優秀な消費者に仕立てられていることに気がつく必要があります。それは障害者も上手でない音楽学生もジャズミュージシャンも同じ。即興の喜びはそういう文脈で話されても良いでしょう。
音楽だけでなく、ダンスや美術も同じです。岩下さんとも「即興に関する」対話をしっかりまとめたいと話していますし、ジャン・サスポータスさんとはダンスと音楽のワークショップをやろうかとも話しています。伝統や民族、さらには医学、人類学、民俗学、文学、考古学、生物学などとも学際的なおもしろい示唆があるはずです。
話はそれてしまいました。
この「音楽療法を考える」という本の刺激からいろいろなリアクションが私の中から出てきました。