「~になる」

一緒に歩いていてジャン・サスポータスさんがよく指摘した。夏や冬に日本では自動車がエアコンをつけたまま(エンジンをかけたまま)駐車している、これはドイツではあり得ない、と。どんなに偉そうな車でもかならず誰かがノックして、エンジンを止めさせるという。日本でやると「自分のカネで車もガソリンも買っているんだ。勝手だろ!」ヘタすると逆ギレ、ひどい目に遭いかねない。

大気を汚染していることは、その人の自由ではない。トイレの100ワット、というようにアメリカ式の考え方では自分で払えば問題ない。京都議定書にサインしないわけだ。選挙を棄権する自由、他人のことを考えない自由。

昨年読んだレジス・ドゥブレにも、人は人間になる、子供は人間でない、というような誤解を生みかねない言い方があった。一人前になって初めて人間になる、その為に教育が必要なのだ、という考え方。

この考え方をいろいろあてはめると面白いし、ドキッとする。親は子供が生まれたからなるのではなく、「親」になる努力が必要、先生は教職に就いたからなるのではなく、「先生」になる必要がある。その意識が今の日本に薄い。夫は、妻は、家族は、生徒は、音楽家は、運転者は、通行人は、子供は、社会人は、男は、女は、友達は、聴衆は、読者は、職人は、ダンサーは、絵描きは、市民は、日本人は、アジア人は、人類は、宗教者は、警官は、政治家は、・・・・・・それぞれ「になる」ための義務がある。

今回のプロジェクトでは、音楽家→ベーシスト→タンゴ演奏家→ピアソラ演奏家、になるために何が必要か?

声高に権利を叫ぶ前にその義務を果たす必要があるのだが、利益追求のために権利を与えず、働きがいも与えず、自分でなくても代わりがいくらでもいるようなバイト社会と学歴や利権を保守する権力社会を作ったオトナの責任がある。

医療費が要らず、アンテルミタン(パフォーミングアーティストに対する失業保険)があり、年金もしっかりもらえる社会では、社会の一員たろうとする動機があるだろうし、税金も払うだろう。信じた仕事をしっかりやり、たまたまその時に収入が無くても誇りを持って生きていけるというものだ。

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