低弦こぼれ話

じじ臭いことは言いたくないけど、気がつくと説教オヤジになりがち。なにしろ自分の子供世代と一緒にいるのだ。そうしてでも伝えたい事ってあるのだろうか?「窓を開ける」とか、「きっかけになる」とか、その位しかないだろう。後は自分たちで行くしかない。

この何年か国際コントラバス祭にいくつか参加した。やはり楽器に関する情報は進んでいる。それらの情報を小出しにして売っていくのが後発国の「先生」だったのだろう。もうそういう時代ではあるまい。しかし音楽界は、どこか上下関係が残っていたりして自由を求めるはずの音楽が不自由にさえなりかねない。「コントラバスですか。ジャズですか、クラシックですか?」等という会話が日本では普通に成り立っている。そんな話は世界ではありえない。

そういうところからは自由であって良い。私は、弓のことも、弦のことも、松脂のことも、テールワイヤーのことも、テールピースのことも、サドル・ナットのことも、エンドピンのことも、移動のことも、レパートリーもほとんど自分で試行錯誤してきた。誰も教えてくれなかったし、いいや、誰も知らなかった!のではないだろうか。そういう情報はいくらでも与えよう。私にかかった時間は省略して欲しい。先がいくらでもある。

「一音聞けば、誰かがわかる」というのが褒め言葉になっているように、ジャズは個人技が強調される。その短い歴史は何人かの天才達が創ってきた、それももしかしたら同じ時代に生きていたりするごく最近の出来事。しかし一生その後をついていくのはいかにも寂しい。「即興演奏」でも自己表現からいかに逃れるかがテーマになっているように、ジャズでもそれがテーマになるはずだ。ベーシストは、派手なアドリブをしなくても、ちょっとした工夫で音楽をグルーブさせたり、変容させたりすることができる。そういう経験を持っている。だから低弦のようなグループがブローウェルをやったり、糸をやったりすることもできるのだろう。トランペットやピアノ、ヴァイオリンが10人集まったってこうはいかないだろう。

3日目の「モケラモケラ」では、楽器を持たない普通の人たちがワークショップをやって、何かを始めようとしている。私にも参加を求められている。低弦のやっていることが何かの参考になるだろうか。

これらの「のれん」は歓迎の意味をこめてみんな(絵描きも漆作家もいるが、皆平等)で作ったのだそうだ。それらが醸し出す空間はとても暖かく、嬉しいものだった。(しかも一つは演奏後に売れた!そうだ。)知里幸惠さんの「アイヌ神謡集」とか、小熊秀雄さんの「焼かれた魚」などが送られてくる。心が洗われる。美しい。豊かだ。

昨年のソロツアーの時は音威子府の砂澤ビッキさんアトリエで演奏した。吉田一穂さんの詩以外の童話・エッセイも手に入れた。シャーマニックでアニミスティックな豊かな世界。私のライフワークである「もう一つの黒潮」の到着地北海道という視点をどう活かすか?「いま・ここ・わたし」で何ができるだろうか?楽器やダンス、演劇などのワークショップなら経験もあるし方法も自ずと出てくる。しかし道具のないワークショップはどうなるだろう。いくらでも応用の利く方法を見つけたいものだ。うだうだ言わなくてもモケラ関係で知り合った「かたるべプラス」のテッチ師匠は「意味のないことなんて無いんだよ」「向こうの山から描けって来るんだ」と言ってます。お導き下さいね。

瀬尾高志のブログに低弦ツアーが書かれています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です