駱駝か、鯨か、はたまた龍か

この一年半くらいトライしている奏法の一つにベースを寝かせて弾く方法があります。このフランスツアーでも何回も試みました。いくつかの感想に「あれは、箏の奏法の応用ですか?」というものがありました。バールもミッシェルもそう思っていました。

ついこの前のPlanB(23日)で沢井一恵さんとデュオの場面であえてこの奏法を取りました。真似をしているのではないことはすぐわかるはずです。

ギターを横に置く奏法はよく見ますが、その応用でもありません。ジョエル・レアンドルがジョン・ケージの曲の時、横にしていましたが、それとも発想が違っています。ちょっと奇をてらっているように見えてしまいますが、結構マジメ?にやっているのです。

井野さんとのベースデュオSoNAISHのブログのCD曲目解説に書いたことがあります。
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冒頭の鯨の鳴き声のような音は、テールピース(緒止め)を直接弓弾きした音です。「箏の一番いい音は?」という質問に沢井一恵さんは「立てかけた箏に風が通り抜けたときの音」と答えました。それに相当するコントラバスの音を工夫したら「鯨」になってしまったという次第です。最近「らくだの涙」という映画を観ました。場所はモンゴル。難産だったためか子供のめんどうを拒否してしまったらくだに馬頭琴と歌を聴かせる儀式を行います。親は涙を流し、親子の情愛がもどるという話です。私が注目したのは馬頭琴を弾く前に、楽器をらくだのこぶに引っかけるシーンです。そうすると風が通り抜け馬頭琴がかすかに鳴っていました。その音でらくだの身体のチューニングをしているように見えました。そうすると演奏や歌を充分に受け入れられるという感じでした。作為のない音ということでしょうか。箏は竜になぞらえます。竜、鯨、らくだ、馬、みんな動物ですね。
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私の意図は、「人の目論見が入らない」方法ということです。「表現」しようとしてしまうことからどうやって遠ざかるか?長年楽器に携わっているとどうしても楽器のことがわかっている気がして「表現」しようとしてしまいます。「うまく」演奏することができるからです。そこには余計なプロ根性が出てきてしまいます。危険な考え方です。こうやれば、聴いている人を惹きつけられるとか、喝采を浴びることができるとか、いろいろです。そして、演奏行為がまさに「そのため」に行われる危険があります。実は「音楽」からドンドン遠ざかるわけです。端的に言えば、最初に「音楽って良いな~」と思った気持ちと離れてしまう。早くギャラをもらって帰ろう、とか・・・・今日はこのくらいで良いか、とか・・・・

沢井一恵さんは色紙を頼まれると時々「無弦琴」と書きます。内田百間、高橋和己、李白、陶淵明、蘇東坡などに使われている一つのイメージです。そのもとにある考えは孔子や荘子にさかのぼります。孔子は「凡そ音の起こるは、人の心に由りて生ずるなり。人の心の動くは、物これをして然らしむるなり。物に感じて動く、故に声に現れる。声、相応す。故に変を生ず。変じて方をなす。これを音という。」漢字の「音」の成り立ちはどこかで引用した白川静さんの説が魅力的です。

荘子はご存じの通りよりラジカルに考えます。「無声の楽」(音を発しない楽)こそ究極の楽である、とか、「冥冥の中に独り暁を見、無声の中に独り和を聞く」なんて言っています。もっと面白いのは、「斉物論」で「人ライ、地ライ、天ライというものを知っているか」(ライは竹かんむりに頼)に対して「人ライとは人が笛を吹いて出す響き(音楽)、地ライとは風が木の虚に吹き付けて立てる響き(自然の響き)である。」「人ライにせよ、地ライにせよ、空気の吹きつけ方は異なるが、穴が音を立てるという点では皆同じ。音を立てる物は穴であるが、その穴に音を立てさせている物は誰であろうか」天ライは、人ライ、地ライの区別を越えて、それらの背後にある根源的な存在に耳を傾けること・・・・・・(笠原潔、論文より)

一恵さん、あるいは私のベース横弾きの考えは地ライにあたるようです。ミッシェル・ドネダが盛んにトライしているハーモニックス奏法もある意味で地ライでしょう。私が地ライ的な音に憧れて、ハーモニックスがより多く複雑に出る生ガット弦を使っているのも、ミッシェルと音が似てきていることもそう言うことなのかもしれません。ハーモニックス奏法によって偶然出てくる音にはいつも驚かされます。楽器の修練を長年重ねてきた奏者がその傾向に成っていくことと、楽器の修行などという時間ばかりかかり、成果が上がるかどうかもわからないことなどスキップして、電気楽器、コンピューター、イフェクターを使って演奏する人たちの音が似てきているという現状を、荘子を通して考えると結構スッキリします。「修行してないからダメだ」とは決して言いません。音で勝負するだけです。求められる音を提供するわけではありませんから。天ライに近づくことなどは全くおこがましいでしょうが、地ライへのアプローチは実行力があるように思います。

世の中の「即興演奏」の傾向として、より「聴こう」とすることがあるように感じます。かつてのフリージャズ的なアプローチはだんだん減っているようです。名人芸を聴きたいという要求よりも、身の回りの音に敏感になりたいという要求かもしれません。「聴こう」とすることは「待つ」勇気を持つことと近い。その必要性を暗黙の内に感じているのかもしれません。

日本、あるいはアジアにはこういう考え方がすんなり落ち着く所があるように感じます。海童道の音にも通じるでしょう。インプロは外来の新しい文化では無いのです。

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