夏が終わった

7月24日から9月1日まで、というと学校の「夏休み」だ。ちょうどその期間をずっと旅して、昨日、選挙後のニホンに帰ってきた。トーキョーの垢を落とすように始まった東北・北海道ツアー、心洗われるようなジャンと真奈さんとの静岡ツアー、ぶっ飛ばした浅草での即興フェス、最後が地球の裏側ボゴタでの現代舞踊フェス。変化に富む夏だった。

旅の終わりは旅の始まり、とは言っても、翌日から始まることが多かったので、なかなか身体はきつかった。14時間の時差の上に、ボゴタは1日の中に四季がある、しかし、1年通して同じ気候。Tシャツ1枚の時間から、セーターの重ね着の時間まで1日の中にあるが、それが毎日繰り返され1年中続く。1年で終わるのではなく、それがズーッと続くのだから人々のメンタリティにかなりの影響があるはずだ。

マレーのザイに聞いたところ、マレーも1年を通して気候の変化がないため、言葉の中に過去形と現在形と未来形の差が無い、副詞などで推量するのだそうだ。ニホンでは、正月にすべて新しくして(過去のことは水に流して)、各季節も、各1日も、その始まり・終わりをとても気にする。生まれて、育って、死んでいくというサイクルを、人生だけでなくいろいろなものに当てはめている。

この差は大きいだろう。何かを創るとき、一回一回終わってしまうメンタリティと、直線的に繋がっているものとは、根本的にちがう。「潔い死」と言う言葉は翻訳できるのだろうか? そして、武士道・「ハラキリ」はニホン文化のことを言うときにトピックとなり続ける。

タデウシュ・カントールは生涯、数作品のみを繰り返し上演し続けた。海童道は、信念に基づき生涯を全うした。吉田一穂は、発表し終わった自作品を何回も推敲し、新たな詩集に載せ続けた。

「今・ここ・私」ということにこだわり、変化していくことを是とする方向で生きていながら、「今でもない・ここでもない・私でもない」(=「絶対」)に憧れる。そんなことを何回も感じた夏だった。

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