hard days 5

なぜ hard daysという副題になったかというと、毎日毎日全く違う音楽を演奏しているからだ。同じメンバーで同じ種の音楽を演奏していれば、一週間続こうが、二週間だろうが、これほどhardではない。ほかの意味でhardになるだろうが、、、、、。これも選んだ道なのだ。続けられる限りやっていくしかない。

今日はプランBで即興演奏。もう一年以上続いている今井和雄とのデュオに今回、沢井一恵さんがゲストではいる。即興シーンで箏がはいることは、今では普通のことだが、私が始めた15年前は、全くの「色物」扱いだった。箏奏者にしても、当時は権力に対する反旗として(既存のものをぶっ壊すものとして)即興演奏が意味を持っていた。スティックで弦をたたくこと自体に意味があった。

政治を見てもわかるように、反対することだけでは、長続きしない。それでは、ということで、いろいろな音響をストックしていき、その引き出しを取っかえ引っかえして「即興」といっている向きが現在多いのではないだろうか?それは即興と無関係であることは明らかだ。むしろその引き出しが無くなったとき初めて即興が始まるのだ。

素材は素材だ。「素材は下級なものの方が良い」と言ったのはポーランドの演出家・美術家のタデウシュ・カントールだ。そういう哲学を持ってはじめて素材が生きてくるのだ。こんなこともできます、という素材の羅列は、カタログ見本でしかない。素材に拘った美術家にジャン・デュビュッフェがいる。徹底的に素材に拘り、「生の芸術」を世に問うた。障害者の芸術表現の研究もしていた。彼が即興音楽にも多大な興味を持ち、自らテープレコーダーを回し、即興音楽を演奏したり、即興に関する論文を書いたことは、自然の流れだったのだろう。

即興演奏中に、素材の引き出しを開けることには、十分すぎるほどの注意が必要だ。その音素材を使い始めると、その効果がでるまでに、ある程度の時間を要求することになる。その時間は、即興の時間の流れの外に流れる。共演者がいる場合はその時間をその場に強制することになる。それはあたかも舞踏ダンサーが最後には裸になることを想定して身体を白塗りした上に衣装を羽織ることに似ている。

即興演奏界、ゲンダイ音楽界の情報にとても明るい今井和雄さん、あまり知らない沢井一恵さん。即興の現場になると、そういうことは全く無関係になるからおもしろい。問われるのは「今・ここ・私」だけだ。二人とも、大変優れた演奏家であることは言うまでもない。その優れた音楽を聴かせようとすることと即興とは、実はとても遠いのだ。

即興演奏は、匿名性に近づく方向のベクトルを持っている。突出した演奏と匿名性、その矛盾をはらんだせめぎ合いが良い演奏を生むのだろう。そこで必須なことは、ただただ「聴くこと」。そして「聴くこと」は「待つこと」でもある。待つことができないで自分の得意技に走ってしまうこと、自己表現をしてしまうこと、は即興から遠ざかるのみ。

この日の演奏もそういう微妙で危険な側面が多くあった。外国では三人が思いっきり「待って、聴けている」演奏がよく起こった。日本では演奏性に走りやすくなる。そういう日常を強制されているのだろうか。

演奏後、となりの部屋で残った人たちと長く話した。そこでは身体性のことが随分話題になった。身体も感覚も十分に使い、さらに十分に待って聴ける演奏、そのあたりから光が見えてくるのではないだろうか?

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