私たちのコンサート その1
これ↑が、スイスのダジャレオヤジ。彼はプロで新宿のハイアットホテルでも長期にジャズを演奏していたそう。そんな彼が、生徒格で身銭切ってこのfestivalに習いに来ている。ある時は10歳の子供に交じってレッスンを受けている。偉い!
初めは普通だった関係が、レクチャー、ミニコンサート、若者達のワークショップなどを重ねるうちに、親密になっていく。日に日に、生徒達、先生達、楽器屋さん達が親しみを込めた挨拶をしてくれるようになってきた。井野さんの言うとおりです。ちょうど良い感じになった日に私たちのコンサートがありました。良い感じです。まあ、ラバトさんがハイライト的なコンサートをしてしまった直後、同じ場所、同じ時間なのでやりにくいことはやりにくいですが、比べてはいけません。(その日のコンサート写真はいずれアップ出来ると思います。)
その当日も、新しいテクニックのレクチャーを午前中にやりました。(こんな教室です↓)自作品から一曲選び、レクチャーというよりは体験ワークショップのかたちです。(E♭チューニングの曲。)ここでは、「自己表現をするな」「サウンドの一部に成れ」ということ。「リズムをだそうとするな、リズムは空中にあるのだから、そこに自分の身体を合わせていく」ということを少しでも感じてもらえばという目論見でした。若い人たちには思いの外、伝わったようでとても嬉しかった。
こういうフェスティバルでは、自然に「上手なひと・成績のいい人」が重宝され、褒められる、当然「下手」な人は劣等感をより強くすると言う傾向になってしまいます。それじゃ、つまらないよ、と思い、若者のワークショップをする時は、「いままでいろいろな先生に習ったでしょうが、この時間は全部忘れて!」と始めました。後で聞くと私たちのレクチャーを受けてから「嫌々行っていた息子が、いそいそと楽しそうに行くようになりました。」とか「コンサートを聴いてから、子供が踊りっぱなしです」「あなたの指導の曲は全く音が違いました」なんてコトバをいただきました。
私たちのここでの役割は、「当たり前のことって、そんなに当たり前?」という問いを実践してみせることだったのかも知れません。それをきっかけに「自分って何者?」という問いに導かれれば良いなと思います。
例えば、自分の気持ちが落ち込んで何にもうまく行かないときは、「駒のすぐ近くを弾き続ける」と良い、と言います。倍音ばかりの雑音と言われる音群です。こういう「雑音」の中から様々な数学的な操作によって「選ばれた」音達が音階となる。でも本来は全ての音は平等なのだ、正しい音、間違った音なんて本来ありえないのだと言う話をします。実際にこういう音を5~10分弾き続けると本当にスッキリするのです。自分が正しい音を選んで音を出しているという意識は、所有意識が強すぎてつまりません。身体にも悪い。自分というトンネルを通って音がでてくるイメージを薦めました。
クラシック系の人は、譜面に書かれていれば、それこそどんなことも平気で弾いてしまいます、弾くだけでなくアクションを入れたり、しゃべったり歌ったりもします。しかし、即興でやってみて、と言うと途端に固まってしまいがちです。またジャズのアドリブというと、複雑なモダンジャズのコード進行を分析して、使っていい音、使ってはいけない音を意識して、メロディーをその場で作っていかなければならない、ということで「ワタシデキマセン」状態になってしまう。
かたやJazz系の人は、「コードが書いてあればその場でアドリブしちゃいます。ひどいときも多いけどね。クラシックは敷居が高いし、偉そうでイヤ。弓の修行も時間がかかりそうだし、、、、」
「こんな可能性もあり、じゃない?」という曲を思いっきり弾く、それが今回私たちSoNAISHの目的、存在意義だったのでしょう。CDに入れた私の曲を中心に、ピアソラを一曲まぜて選曲しました。
本番を前に緊張の井野さん(ウソ)↓