ストーンアウト(徹)
80年代に韓国・アルゼンチンを訪ね、その音楽に触れもっとも感じたことの一つに一拍目の取り方がありました。私が小・中学校の音楽の時間に習ったのは「三拍子は強・弱・弱、四拍子は強・弱・中強・弱」ということでした。そう答えないとダメでした。しかし世界中の生きた音楽でそういう拍の取り方は無かった。(例外は軍隊の行進でしょうか?)一拍目はその前から溜めたエネルギーを接点で解放(開放)させるもの。踊りが大事にされている音楽ほどその傾向が強いと感じました。
フラメンコ、ウインナワルツしかり。韓国伝統音楽・タンゴもまったくそうでした。後日体験したフラメンコはもっと具体的で、12拍あると、12―1-2-3ー4―と数えていました。日本の音楽教育の元になっているはずの「西洋クラシック音楽」の現場でもそうでした。若かりし頃、エアジンの梅本さんに薦められ、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」を演奏する機会がありました。毎小節ごとに拍子が変わるような譜面に面食らい、しかも指揮者を見ながら演奏することも全く馴れていませんでした。何とか耳で音楽を覚えてリハーサルに行くと、指揮棒の運びに全く合いません。私だけ指揮者の打ち下ろす前拍を一拍目と勘違いして演奏を始めていたのでした。回りのミュージシャンにはお恥ずかしい限りでした。
ストーンアウトでも一拍目を強調しています。身体でビートを感じるためには呼吸法が大事になります。長く長く息を吐き、一気に吸う。吐くことができれば、吸うことは意識しなくても大丈夫。それはちょうど水泳の息継ぎと同じです。息が無くなることを怖れて、少し空気を残しておくと、息継ぎがうまく行かず悪循環におちいって水泳どころではなくなる。怖れずに空気を全部出し切ると自然に空気が入ってきてリズムに乗って泳ぐことが出来る。その感じです。身を投げ出してこそ、救われる?ということでしょうか。一拍目をうまく出し、大きなリズムに入り、12拍の大きな輪が回り出す。そこに井野さんの言う「5・9」拍目にくさびを打ち込むわけです。くさびが打ち込まれるために12の円はより活気づく。
ストーンアウトを委嘱・初演してくれた「KOTO VORTEX」も、そこが一番の難関でした。邦楽では息を詰めることが基本になっていて、息を吐きながら演奏することは無いとのこと。まして身体を揺らしながら演奏することなどは品格が疑われる。しかし敢えてそうしてもらいました。CD「STONE OUT」の冒頭には無音の部分が入っています。そこで身体を揺らしながら自分の身体と場とのチューニングをしているわけです。音量を大きくして聴くと奏者の呼吸と身体を揺らす音が聞こえます。
韓国には恨(ハン)という概念があります。私の理解は決して充分ではありません。とても重要な哲学的なトピックです。私なりに理解している部分は、次のような感じです。僻み、妬み、嫉み(ひがみ・ねたみ・そねみ)などに自分が囚われてしまう。それをある意味楽しみながら嘆く。永遠に回っている12拍子に乗り、一拍目の接点でハンを飛ばしていく。その踊りがサルプリ