スーパーデラックス ゲスト

小林裕児 スーパーデラックス(10日)、佐賀・エスプラッツホール(16日)

裕児さんのことを書くと、いままでの共演話だけでも本一冊になってしまうでしょう。始まりは博多の画廊の紹介でした。ミッシェル・ドネダの日本ツアーの時のライブCDジャケットをお願いしたのです。ここでも繋がっていたのですね。「Pagan Hymn」(無神論者の賛美歌)。この時に何パターンかの絵を描いてきてくれました。しかも、すべて実寸なのには少なからず驚きました。そうです。すべてが具体的。これは大事なのことです。初めから大きなレッスンをいただきました。具体的でなく、夢ばかり語っている時間は無い。「夢を語ること」が好きなだけになってしまったら始末が悪い。いずれにせよ、できなかった時の言い訳になるのが関の山。酒の肴になるのはまあ良いとかな。ひょっと実現したりしますから。

1年に3~4枚という極細密画から1989年に画風を一転。ドローイングなら1日に100も描くと言います。(画風が変わった後に、最終期の安井賞を受賞。)いつでも描いていて、微電流を流し続けることが大事とおっしゃいます。これも大きなレッスンでした。すべて具体的なのです。

89年というのは世の中の替わり目。それを先取りしていたのでしょう。演奏家が演奏した音によって、自分を知り、時代を知るように、絵描きは描いた絵によって自分を知り、時代を知る。

私が月~金で担当し、日替わりゲストを迎え、しかもテーマは「即興」というNHK・BS「公園通りで会いましょう」という番組がありました。今思えば世の中、余裕があったのですかね。(岩下徹・沢井一恵・川口良仁・小林裕児・久保田亜紀さんゲストで5番組)

小林さんの日には、やはりライブペインティングをやろうと言うことになり、おおきな透明のアクリルボードを用意してもらいました。NHK側は言葉無しが10分続くのを極度に怖れていました。しかし、最低10分は譲れません、ということになり敢行しました。この交渉も見事でした。何のためにやるのかが明確だから、論理も明確、説得できるのです。その場の打算は何にもなりません。

ジャン・サスポータスさんと裕児さんの出会いは、特別でした。浅草アートスクエアで私とジャンさんも初共演。以前よりピナ・バウシュの熱心なファンだった裕児さんは、ジャンさんとの出会いをきっかけにドンドンと展開していきました。

彼の作品に曲を付けて欲しいという依頼があり「朱い場所」「浸水の森」になり、CDにもなりました。良い機会を与えてくださいました。

自分も流動しながら、流動していく世の中を的確にキャッチしていくのは並大抵のことではないでしょう。確固たる自信に基づき、あらゆるものを栄養にして、大量の仕事をこなす。しかも自分が得たごちそうは、必ず、次の人達にドンドンと流していきます。どれだけ多くのヒトがごちそうにあやかったことでしょう。もちろん私も。

ヒトに生まれたからには、こうありたいものです。

NHK番組でのライブペインティング
NHK番組でのライブペインティング
朱い場所を前に@ギャラリー椿
朱い場所を前に@ギャラリー椿
浸水の森とジャンさん
浸水の森とジャンさん

黒沢美香 スーパーデラックスゲスト 10日

お名前はずいぶん前からうかがっていましたが、やっと共演がかなったのが岩下徹さんの企画でした。(東野祥子さんに引き続き)京都でのトリオ。東京でのリハーサルの日、初顔あわせ。演奏もダンスもできる「いずるば」でしたが、話合いだけでした。美香さんから「で、齋藤さんは当日、何の楽器をお弾きになるの?」と聞かれ、頭も身体も止まってしまいました。

「当たり前」を疑うことこそが「即興」の始まり、と日頃言いながら、私がコントラバスを弾くという「当たり前」を疑ったことがなかった自分を恥じました。思い出したのが海童道さん。彼も音楽・プロなどを嫌っていて、楽器がなくて自分は何をする、という問いを投げかけた文章を読んだことがありました。

どうしてこのような視点をもてるのでしょうか。聞けば、大変な状態の身体だそうです。定期検診で担当医さんが「自分が勇気をもらう」と言うそうです。元々、持っていらっしゃる考え方、批判精神(それはご自身にも向かっています)と相まって、滅多にありえない地点に到達していると推察します。

回りで何が起ころうと、微動だにしない確信に満ちた動き、「確信」という言葉でも足りませんね。「これしかない」という即物的かつ祈りにも似た行動なのでしょう。「これしかない」とは、煎じ詰めれば、このために生き、このために死ぬということでしょう。モダンダンス界で幼少からあらゆる賞を取ってきたテクニックは完全に血肉化していて、寸分の狂いもありません。習い事や教養、世の中のダンスの流行り廃りとは完全に無関係。正に世界で一人。

「郵便局に勤める◎◎さん」とか、「キャバレーの△△さん」とかキャラクターを決めて取り組んだりもします。東野祥子さんも「煙巻ヨーコ」というキャラをもっているそうです。キャラになりきった自分を楽しんでいるのでしょうね。フェルナンド・ペソアが10以上の名前で文章を書いていたのと近いのかも知れません。自分って一体何なのか?迷ったときは「名前」を変える、「顔」を変える、「身体」を変えるればいいのでしょうか? 私も名前を変えたり、楽器を替えたりして出来るのか?それを思うとまだまだ囚われている自分です。

駒場アゴラでのデュオにお誘いいただき、返礼にポレポレ坐 徹の部屋にお呼びしました。いつでも新鮮。アゴラの時、私はカネフスキー中毒で、映画の中の「炭坑節」や「よさこい節」、ポレポレの時はザ・ピーナッツメドレーを弾きました。終わってみると、結局、弾きたかった自分があからさまに、反射されていました。

裕児さんは長年、美香さんのファンだったとのこと。「浸水の森」にも美香さんのダンスから得た「具体」があると聞きました。

ワクワクします。

弓の重量挙げ
弓の重量挙げ
「なにしてるの?」「え、ちょっと、その、あの」
「なにしてるの?」「え、ちょっと、その、あの」
机上ダンス
机上ダンス

成河(ソンハ) スーパーデラックス 10日 

以前はチョウソンハという俳優名でした。広範な演劇ウオッチャー小林裕児さん夫妻に紹介されました。(裕児夫妻の目の付け所はきわめてユニークです。)目下、大大人気の俳優さんです。CDになった京橋ギャラリー椿での「朱い場所」ライブでもう一つの出し物があり、ひょっとこ乱舞のメンバーとして出演。そこで二言三言言葉を交わしました。その劇団の身体訓練は東野祥子さんがやっていたとかで、今回のゲストメンバーは曼荼羅のように繋がっています。

寅年正月に虎の絵を描くという裕児さんのイヴェントがありました。在日の彼にとって虎は特別でしょう。自分が虎になると言って裕児さんにボディペイントしてもらい、虎になった彼は、開演前一時間くらいの間ももう舞台に出て歩いたり、ポーズを決めたり、寝ていたり。その存在感は、シンガポールでザイ・クーニンに初めて会った時を思い出させました。アジアの野性、あるいは森林の奥から睨んでいる眼差しでしょうか。

ケンガリを持参していたので、私も車からチン(銅鑼)をとりだしました。もはや会場はソンハさんの恨(ハン)で満ちています。恨は、韓国独特の感覚でなかなか他民族は理解できないようです。単なる怨みとは違うことだけは気をつけておかねばなりません。

共演したいとお互い思うようになりましたが、俳優とのセッションはなかなか難しく、演出・脚本をどうするか、やっつけのパフォーマンスではまずいだろう、ちゃんと仕組むとなると大仕事になるな、などと考えていました。その間、彼は「徹の部屋」に何回も観に来てくれるようになり、先を急がなくてはと思いました。そして、今回のツアーメンバー+小林裕児+黒沢美香なら、何が起こっても大丈夫という確信になり、お誘いしたわけです。Now’s the time.

私の演劇体験は貧しいものでした。高校の友人の親が文学座の脚本家(宮本研)で、題材が宮崎 滔天や田中正造、大杉栄、ナット・ヘントフなどだったので初めて興味を持ちました。アトリエ公演は大変印象深いものがありました。(関係ないけど、小学校の隣のクラスに野田秀樹がいました。)

ずいぶん経ってからシアターグループ「太虛」(TAO)から音楽を依頼されましたが、興味がわかず、お断りしていたのですが、あまりの熱意に引き受けました。そこでの10年近い経験は大変大きなものでした。稽古1ヶ月間役者と一緒にストレッチをして、毎日一緒に飲み語り、幕が開いた時はそれはそれは嬉しいものでした。その時作曲したものをいまだに演奏したりします。役者・演出・スタッフともに、寺山修司・鈴木忠志・太田省吾の元で仕事をしてきていました。大きなカリスマ無き時代の演劇公演、しかも時代はバブル。複雑です。

演出の鈴木絢士(健二改め)および音響さんがタデウシュ・カントール/クリコット2の日本公演を手伝っていたのでなんとなく観に行きました。しかしそれが、私の人生最大の演劇体験でした。こんなこともできるのだ!

その後、渡辺えりさん、岸田理生さんの劇で音楽をやました。太田省吾さんに衝撃を受けて、是非一緒にとお話しもしていましたが、亡くなってしまい私の演劇での望みは終わったかのように感じていました。

さてさて何か始まるでしょうか?

撮影:荒谷良一
撮影:荒谷良一
チェゴヤ
チェゴヤ