即興に関すること v

「音」とは、本来、聴くもので、出すものではなかった。

白川静さんの「常用字解」(平凡社)によると、この字は「立つ」に「日」ではなくて、「言」に「一」を足したもの。すなわち音は言葉を意味した、それも神の言葉。(以前引用したアーノンクールの本の副題が「言語としての音楽」でした。)「言」とは「入れ墨用の針」に「さい(神に誓い祈る祝詞【のりと】を入れておく器)」。すなわち、祈りに神が反応するときは、夜中に「さい」の中に音をたててくださる。ウソ偽りを言うと、入れ墨の刑を与えられます。神が反応するときが「おとづれ【訪れ】」。「暗い」も「闇」も「音」が入っているわけです。本来聴き取りにくいものが音。(「さい」は白川さんの中心になる概念の1つ、↑中央の字です。)

願いを込めて、夜、じっくり「待つ」もの、それが音。自己表現の道具とは正反対ですね。「聴くことは、待つこと、待つことは信じること」と思っていたことを裏付けてくれるようで、合点がいきました。「音」に「心」をつけて「意」。「自ら」の「心」が「息」。なるほどです。

(ここでは関係ないですけれど、生涯を研究に打ち込んだ白川さんは、日本はアメリカの属国である、とはっきり言い切っていました。沖縄に関する密約が明らかになり、「テロとの戦い」が欺瞞に満ちていることが明らかになった今でさえ、それを言うことを憚る雰囲気はがあります。また、白川さんの願いは、東・南アジアの漢字文化圏を復活・構築することでした。)

律令制度の「律」は「音律」のことだったそうです。中国で国が興るとまず政府がやったことが「音律」を決定することだったそうなのです。基本となる音の高さを決める、その音を出す笛の長さを決めることでした。なぜそれほど大事だったのかというと、音の高さの尺度が、全ての度量衡の基本になったということです。税金も音で決めていたと言うことなのです。

この2つの例で分かるように、音は本当に大事なものだったのです。

大部屋に入院していた時、足音、息の音、衣擦れの音で、同じ部屋の誰かが分かりました。人は音なのだと思ったものです。同じ楽器をいろいろな人が弾くと、全く違う音が出ます。音によって人がわかるという例でしょう。韓国語で音のことを「ソリ」と言います。「そりが合わない」というのは、刀と鞘の反り具合が合わないことでしょうが、あの人とは「音」が合わない、と解釈しても面白いです。

かつて網走の養護学校で演奏した時、10年以上、何にも反応しなかった人が、ベースの音に反応して動きました。先生・スタッフがビックリしたのなんの。私の演奏にそういう力があったのではなく単なるきっかけや偶然だったのでしょう。しかし、音には、そういうきっかけになる要素がある、ということを改めて感じ入った次第でした。

心にもない音楽を演奏し続けると、音から復讐され、身体を壊したり、心を病んだりします。音楽性の無い教則本(コントラバスの教則本にありがちです)を根性いれてやっていると、音楽性のない演奏家が出来上がってしまいます。おかしな音楽ばかり聴いていると、おかしな人間になります。

人間の身体より、音のほうが断然強いのです。

アルトーの精神病院で
アルトーの精神病院で
子供たちの即興
子供たちの即興
ロデスの野外劇
ロデスの野外劇

フランスでは、パフォーミングアート関係者には、アンテルミッタンという保険制度があって、一定期間に一定の仕事(リハーサルを含む)をしていることが確認されれば、毎月1000ユーロが受け取れます。1000ユーロは現在のレートだと11万円強です。これだけあれば、ミュージシャンとしての「誇り」が保てますね。一般市民の税金をもらっている、ということでもなく、演奏の仕事をするたびに、ギャラの何割も保険に収めるのです。私のような外国人が仕事をしても同じです。今年はフランスで2週間ミッチリ仕事をしましたので、アンテルミッタンから加入の書類が東京に届きました。

最低限のお金がないと、まず、楽器、身体、気持ちの維持ができません。さらには、研究や勉強、練習、本を読んだり映画を見たり、旅をしたり、ゆっくり考えて試したり、などは遠い夢。バイトに時間を取られ、自分が音楽をやっているという意識まで保てません。たとえ、何とかお金と交換できたとしても「売れる」ものをやり続けなければならなかったりします。

ドミニク・リピコーさんというミュージックアクションのプロデューサー(20年以上続く即興音楽・現代音楽のフェスティバル)は「音楽はパブリック・サービス」だと言い切ります。公が支えるべきものだというわけです。その分、しっかりやってくれ、という約束になります。ミュージックアクションの力で私も多くの活動を支えてもらいました。

アンヌ・モンタロンさんがラジオ・フランスで、即興音楽の番組を続けています。現在は、ネットで音や映像を聴取することができます。その番組も存亡の危機の時、あっという間に署名運動が起き、持続しています。前述のミュージックアクションも昨年(2009年)キャンセルになりましたが、署名運動が起き、今年は復活し、私も演奏できました。

日本との差は当分(決して?)埋まるべくもないでしょう。

2つ目の写真は2001年のミュージックアクションのワンシーン。メインステージでは、ヨーロッパそして世界からのプロミュージシャンが即興音楽・現代音楽をやっていますが、この部屋では子供達が即興演奏をしていました。多くの聴衆がつめかけ大変盛り上がっていました。小学生から中学生くらいでした。年長になってくると、だんだん「プロ」がやっている感じに似てくるのが、ちょっと残念?に思うくらい、年少の子供達のインプロは楽しかった。

地域ごとに即興を教えるセンターがあるということでした。私がこのフェスティバル企画でワークショップをやったときにも、地元の音楽教師が参加していました。

La Fanfare de la Touffeと言う活動もおもしろいです。 (Click!)  80台の中古楽器を車に積んで、各地をまわり、子供達・初心者にブラスを吹かせて、セッションするという企画。街を練り歩き、時にはマクドナルドなどに入って吹きまくるのです。今年のドイツツアーは、ファブリス・シャルルが中心になって、来年招聘するミッシェルとニンがソリストという構成でした。 (Click!) 学校まわりをして、空き日にライブをする。もちろん、ドイツの公のお金が元になっていました。

役者・演出家ミッシェル・マチューさんとロデスで共演したパフォーマンスでは、街が全面的に協力していました。マチューさんはIREA(即興に関する交換と研究する組織の代表です。ドネダもニンも参加しているトゥールーズの団体。 (Click!)  )アントナン・アルトーを特集した詩のフェスティバルで、アルトーが収監されていた精神病院跡地からセッションが始まり(3つ目の写真)、聴衆と一緒に街中を移動してパフォーマンスをしました。この間、この地域の道路は車両通行止めです。病院~教会~島と移動。私自身とてもワクワクしました。(教会でのセッションが「Spring Road’01」(シザーズレーベル)に収録されています。)

即興に対する考え方・とりまく状況全体が今の日本とは大きく違います。
友人のバイオリニストで、バプティスト教会牧師の谷本仰さん (Click!) は小倉を中心にタンゴ・即興演奏、演劇音楽をしつつ、ホームレス支援の活動も続け、音楽療法士の資格も持ちなどなど、八面六臂の活動をしています。また若尾祐・久美さんを中心にした日本即興音楽学会 (Click!) があり、先日スカイプでのインタビューを受けました。

日本ではいろいろなことが今始まりつつあるという状態のようです。

おいしいもの好きミッシェル
おいしいもの好きミッシェル

フランスの状況を語るのに、アソシアシオン(アソシエーション)のことを書いておかないわけにはいかないでしょう。古い言葉で言うと「結社」の自由が尊ばれていて、非営利団体として数十万あるとも言われています。王政に対するものとしての意味さえあったそうで、歴史的に確立・尊重されているわけです。2人以上の市民がいれば作ることが出来、地域密着型のサービスを行います。もちろん音楽サークルもあれば、美術サークルもあるわけです。

それぞれのアソシアシオンが公に申請書を出して、予算をもらい、活動する。私のソロツアーでは、各地のアソシアシオンを回ったことがあります。ミッシェルが努力して各地に連絡を取り、年に何回かのライブ予算を振り当ててもらったのです。そんな事情もあるために、ブッキングは早くなければダメです。1年先のことなど当たり前です。

4~5人の音楽愛好家がやっているグループもあれば、マルセイユのGRIMは、映像学校もあり、印刷所も,宿泊所もあります。大きなフェスティバルだってそうです。私たち日本人にとってちょっと驚くのは、みんなで一緒に飲み食いすることをとても大事にしていることです。大きいところではレストランを併設しているし、小さいところは食材・料理も持ち寄り、演奏の前後に演奏家とスタッフがみんなで食事をすることをマストとしているようです。

食を大事にすることは生活の基本です。時間を掛けずに、簡単に済ませてしまうことで失われる多くのコミュニケーション。近所にある24時間コンビニでおにぎりとお茶を買ってきて楽屋でボソボソ一人で食べる、これは食事ではなく、食料摂取です。素材を作る人、運ぶ人、料理する人、給仕する人、一緒に食事をする人、との会話で内容のあることを言う、面白い話をすることは大事ですね。テレビで誤魔化してはモッタイナイ。

前回紹介したLa Fanfare de la Touffeでマクドナルドに乱入してブラスを鳴らし営業妨害をする、というのもミッシェル達のファーストフードに対する意思表示なのです。小学校に、三つ星シェフが来て、一流の食事をする時間があるとか、癌病棟にワインリストがあるとか、わが国とは違いますね。

レストランで30ユーロ使うことには抵抗がないようですが、例えば、ワークショップの受講料が30ユーロだったら、誰も来ないでしょう。

即興演奏だって、人間の行為ですので、食事と関わる側面だってあるのです。美味しい物好きの演奏家の方が、栄養補助スナックを食べている人より、豊かな音が出そうですよね。

前に書いたロデスでの詩のフェスティバルの時、地元のお金持ちが、出演者、聴衆全員を自宅に招待した食事会がありました。200人はいたでしょう。

モケラモケラでのワークショップ
モケラモケラでのワークショップ

ずいぶん前のこと「アイコンとしての身体」(アスベスト館・大野一雄校長)で「音と身体」というワークショップを担当したことがありました。今でもワークショップは慣れないのに、その頃はなおさら。ともかく懸命にやった覚えがあります。

例えば:

背骨と口の方向が直角なのは人間だけ、ということなので、真っ直ぐにするために上を向いてもらいます。そして「おーい、おーい」と何かを呼んでもらいました。普通におーいと言うのと,全く違う感覚が訪れます。ほとんどの人が、まるで自分の内部(遠い記憶)に向かって何かを呼んでいるようだった、と感想を言いました。私もやる度にそう思います。

そういえば、小鼓の久田舜一郎さんの最高潮のかけ声は、自然に上に向かって吠えている感じです。おおかみも遠吠えも、月に吠える詩人も上向きでしょう。

音楽は「呼ぶ」動作、踊りは「探す」動作という野口三千三さんの話が好きです。野口さんがいた頃の東京芸大は、三木成夫さんがいて、小泉文夫さんがいて、なかなかすばらしいですね。三人とも、世の中の流れに「ちょっと待ってよ、そうじゃないんじゃない?もっと自分の中に聞いてみようよ」と言う感じです。そのユニークな視点をもとに活動していたと言う点で共通していたように思います。この三者に学ぶことは多いです。

野口さんは体育の先生でしたが、ダンスは、大野一雄さんの弟弟子だったり、舞台にも興味を持っていて、ユニークな視点はいつも刺激的です。そして、こんなことまで言っています。耳が痛いというか、励まされますね。

「自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいが、それは二の次のことだ。他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は、自らを損なうだけでなく、観客を侮辱し、愚弄する以外のなにものでもない。自分勝手、ひとり合点、何がなんだかさっぱりわからない。・・・・・・大いに結構。ただ一つの願い!!それは舞台に関係する一人一人のすべてが、ほんとうに自分を大切にしてほしいということだ。ほんとうに自分がやりたいことを、どうしてもこうしてもやりたいのだというやり方を、とことんつきつめて、丸ごと全体の人間としてぶっつかってほしいということだ。この生々しい強烈ないのちの花火だけが、観客の主体的創造活動を触発する唯一のエネルギーなのだ」(「野口体操・身体に貞く」柏樹社)

おーい、と呼ぶ声で思い出したのが春日大社・若宮宮の声の出し方「警蹕(けいひつ)」です。歌詞はなく、ただオーと言う音で、決まり事は、低いオーが小さい音、だんだん高くなるにつれて大きい音になる、高いところでは、西洋でいうハーモニーは気にせず皆の音をそのまま響かせあう。それがずっと続くわけです。いわゆる西洋ハーモニーでない響きは、現代音楽での「クラスター」になってとても現代的に響くのです。

ワークショップを頼まれた時、何回か試しました。面白かったのが、フランスでやったときは、みんなが気持ちよくハモってしまう。どんなに注意しても自然に「美しく」ハモってしまうことでした。日本ではそういうことはありませんね。上を向いて声を出し続けて円を描いて歩いてもらうと、時々、もの凄い空間が現出しました。そういう時、参加者は大変満足し、取り憑かれたようにみな遠い目をしています。何かを思い出しているようです。

反応するものが身体の中にあることを知るだけで大いなる発見でしょう。また、昔の人々の音に対する敏感な感覚に脱帽します。私が時々つかう竹の笛は、あんま笛で、男笛、女笛があって、流しのあんまさんが男か女かすぐ分かるようになっていたそうです。無言唄(むごんばい)という聲明の1種は、声を出さない聲明。以前書いた、荘子や孔子の音楽論をみると、ジョン・ケージが4分33秒をやるずっとずっと前からアジア・日本の伝統にあるわけですね。

即興は、「知らない」ものを「思い出す」方向に作用するときに、とても素晴らしいと思います。

写真は旭川モケラモケラでのワークショップで警蹕をやっているところ。参加者はかたるべプラスの友達です。