in F での新春初LIVEで30〜40年前の記憶が交錯してきました。京子さんが初めて自宅に訪ねてくれた時、私は幡ヶ谷で祖母と住んでいました。仏製のSAIGONという名のピアノも健在だったはず。同行した友人はミニコミ誌を始めていて、ジャズやらフリーやらをやみくもに信じていて、なにやら蠢く予兆があったのでしょうか。いや、保証などまったくないけれど茫漠とした「希望」は疑うことなく自然にあったように思います。
in Fのライブの後、「普通」のミュージシャンのように深夜帰宅・就寝で生活リズムがアッと言う間に狂い、寝不足・体調不振なのですが、老人性早起きで「暮れゆくバッハ」(岡井隆)をパラパラ読んでいて松本健一の死を初めて知りました。(ジャズ系の人達へ:山形在住のサックスの彼ではありませんよ。もちろん)
学生時代、彼には疼くような思い出がありました。大きな影響を受けました。時はバブル、ほとんど誰でも一流企業に就職できるとき。心優しき新左翼学生達は、デスパレートな相互殺人に追い込まれ、もみあげを短く切り上げたクールな「シンジンルイ・新人類」が大挙して現れる直前でした。
私が大学内で希望を託したのが鶴見和子さんのゼミでした。柳田國男から南方熊楠へ主題を移し、パラダイムシフトをすでに言い出していました。色川大吉さん、見田宗介(真木悠介)さんなどと水俣など社会問題へ積極的に関与する「行動する」大学教授の一人。
鶴見さんの祖父が後藤新平東京府知事で、大杉栄にカンパをし、どもりの大杉が五百円と言えないために三百円と言ったなんていう逸話が残っています。一方見田さんは大杉を虐殺したという甘粕大尉の血筋。親を選んで生まれてくることはできません。が、いいとこの子たち。当時の学生運動でも、捕まるのは普通の学生、大企業の社長の息子達はけっして捕まりませんでした。
竹中労が箱根にこもりながら月一回浅草木馬亭で話す会をしていて、「現代の眼」で大杉の連載をしていました。芸能に精通する労さんは浅草オペラ、落語、沖縄・奄美の話の他に、阿部薫の話もしていました。正にそんな時代です。
リアリティの無い生活、将来に狂おしいほどの違和感をもっていた学生の私は、鶴見先生を通してアカデミズム・リベラルの限界を直感し、とても大学院や教職につくことはできずになぜか音楽の道を選んでいました。無謀きわまりない選択です。
そんな時に読んでいたのが松本健一でした。私の祖父が東亜同文書院出身でしたので自ずと中国の香りは家にあり、竹内好を読んでいました。また右翼・左翼という二律背反の考え方には入っていけません。そんなときに松本健一の諸作は有り難かった。
左翼・右翼というのは、リベラルを中心にした鏡になっている。過激な左翼と過激な右翼は同じ、という考え方に目を見張り、同感しました。当時自民党の中心はリベラルだったのです。今となれば・・・
北一輝、村上一郎、桶谷秀昭、草莽の臣、雑誌「伝統と現代」などを知ったのも彼からでした。頭山満・石原完爾・板垣征四郎など右翼の高価な本も読んでみました。市ヶ谷駅前のパブでジャズを弾いてそのギャラで買っていました。小学校〜中学校まで先生はほとんど日教組でしたので、左翼=正義という刷り込みから抜けるのに時間はかかりました。
ドツボにはまったような社会・政治。政治では解決できないことも音楽ではアプローチできるのではないか、少なくとも自分にとって息ができるかもしれない、と全く縁もゆかりも無い音楽の世界へ入りました。
松本さんのことに興味もなくなりました。時が経ち、次に彼の名前を見たのは民主党政権での内閣参与!麗澤大学教授。平田オリザも名を連ねていましたね。
金が無くなり、愛読書をすべて売り払い、空腹で、狭い下宿に最後に残す本はなにか?なんてセンチメンタルに書いていたのは遠い昔。3・11の時は官用車で自宅に帰ったそう。
人様のことは人様のこと。
ユーラシアンエコーズ、オンバク・ヒタムというプロジェクトをすすめている私にはアジアがあります。はたしてホントにできているのか?まさか大東亜共栄圏の影を引きずっていないのか?の検証は怠らずにまだまだやり残しがあります。時間をください。
そんな私が、東日本大震災・原発爆発以来、歌作りを始め、詩や短歌を読み始めてめぐりめぐって松本健一を、死という事実を伴って発見した朝でした。
私にとってあの時代は「過去」なのか?
「何か今の学生に話せ」と大学に呼び戻されたのが10年後、突発性難聴で音楽生活の危機に遭ったのがその10年後、癌で命が危機にさらされて今。今、何をする?
心の激しく揺れ動く正月です。
写真:小原佐和子