昨年、私のキャリアで深く刻まれるライブとして、歌の新曲を松本泰子さんに歌ってもらい庄﨑隆志さんに踊っていただいたLIVEが4回ありました。(庄﨑さんは後半2回参加)
東日本大震災・原発爆発の後に妊婦・新生児たちの集まった避難所でベース1本持って立たされた時に、「ここで必要なのは、歌と踊りだ。いかにうまい演奏をしても、すごい即興をしてもしかたない」と感じ、歌作りを始めました。うたをさがしてトリオ(さとうじゅんこ・喜多直毅・徹)での活動、オペリータうたをさがして(LIVE・CD)で一里塚を迎えました。
それを引き継ぐ活動として始まったのがこのプロジェクトです。歌作りは、ことばを探すことからはじまります。今回は薦田愛さんがきっかけになりました。入院中頻繁にに励ましてくださっていて感謝をしていました。ふと、気がつくと薦田さんをはじめ私の周りに「言葉で生きている」人が何人もいらっしゃったのです。それらの人々と一緒に作って行けば良いんじゃない?なんでそんなことに気がつかなかったのか?我が身がアホらしくなりました。
私(たち)はもう全てものを持っている、それに気づかないようにさせて「新たなもの」「新しいもの」を求めるように仕向けられている。あらゆる情報の後ろに隠れているのがお金。新しいことも同じ。
この話をエアジンの梅本さんにしたとき、三角みづ紀さんのことが話題になり、仲介してもらって依頼すると1曲「Pilgrimage」が送られてきました。お返しで「患う」に曲を付けました。
薦田さんからはいくつか送られてきてそのなかから2つに曲を付けました。
うたをさがしてトリオでの最後のレパートリーとなった渡辺洋さんの「ふりかえるまなざし」を含めて5曲で昨年2月にエアジンでお披露目をしました。
その後、何冊も詩集を携えてドイツでの自閉症プロジェクト「私の城」(ジャン・サスポータス振付・演出)に参加したとき、オフの日を作曲に当て、滞在先のジャンさん宅で7曲作り、今回のレパートリーが完成され8月になってるハウスでお披露目できました。
物事は流れ出すと、こちらの意思にかかわらず流れていきます。ジャン・サスポータスさんの来日がキャンセルされた時、予約していたライブ会場(アトリエ第Q藝術)で代わりに何かやろうと思った時に思いついたのが仮押さえしていた庄﨑隆志さんと一緒にこの歌をやってみようということでした。思いつくという事は、偶然ではなく大きな意味があるのでしょう。
プロジェクターで詩を投影するという方法も活き、聾者と現代詩・ダンスという道がつながりました。何と言っても庄﨑さんの才能もあり、とても素晴らしい会となり、すぐにアンコール公演になりました。
その際は詩人の方(薦田さん・木村さん・野村さん・寶玉さん・市川さん)もお見えになり、朗読してくれたり、踊ってくれたり、楽器を演奏してくれたりでした。あまりにも素晴らしい時間でしたので、これは映像化を考えています。
唯一の心残りだったのが、北海道在住のために来ること能わずだった三角みづ紀さんでした。
今回、エアジンでのLIVEの話を伝えると、ちょうど東京出張期間でしかも時間があるということ。これは流れです。見えざる神の手と言わざるを得ません、何かご一緒に、というLIVEになります。
こういう流れには身を任せるしかありませんね。
1月13日 昼 横浜エアジン
http://www.airegin.yokohama/ume.html
松本泰子うた
齋藤徹コントラバス・作曲
スペシャルゲスト:三角みづ紀
Open15:00 Live15:30 ¥3000
マチネです。
三角みづ紀(みすみみづき)
詩人。1981年鹿児島生まれ。大学在学中に第42回現代詩手帖賞、第10回中原中也賞を受賞。第2詩集にて南日本文学賞と歴程新鋭賞を受賞。
執筆の他、朗読活動も精力的に行い、自身のユニットのCDを2枚発表しスロベニア国際詩祭やリトアニア国際詩祭に招聘される。第5詩集『隣人のいない部屋』にて第22回萩原朔太郎賞を最年少受賞。
演奏曲:
野村喜和夫(防柵7,防柵11)・三角みづ紀(Pilgrimage、患う)・薦田愛(てぃきら、うぃきら、ふぃきら、ゆきら、りきら、ら、 ひが、そしてはぐ)・木村裕(デュオニソース、雫の音)・市川洋子(はじまりの時)・渡辺洋(ふりかえるまなざし)
詩人の方々からのLIVE感想です。
薦田愛
夏の明け方の海辺や、通勤途上の満員電車。詩の入口は思いがけない場面に用意されて
いて、私を驚かす。
そんな話をしたわけではないのに徹さんは、言葉に隠れていた戸惑いや弾む思い、身の
ふるえやその場の湿度さえ汲み上げ、曲調に織り込んでみせてくれる。泰子さんの自在
で艶やかな声は、音と言葉の喜びに満ちた作品を、あざやかに空へ解き放つ。
そして、詩の始まりに居合わせた仲間や、満員電車に乗り合わせたあなたのもとにも届
く。きっと。
野村喜和夫
先日のライブはほんとうに興奮しました。徹さんの弾くコントラバスの音が、詩の言葉を過激にいつくしんでくれているようで。
三角みづ紀
詩が肉体になって、きちんと温度を持って
文字にとどまらず、自由に舞っている。
寶玉義彦
詩人が詩にどんなに排他的なレトリックを与えたとしても、音楽はそこに入り込み分解してしまいます。詩人自体、本質的に詩を虐待しながらでしか詩をかけないと私は感じていますが、そういう意味では音楽との対峙が互いの殺戮で終わることも、私は恐れません。音楽と詩が関わり合う形は、いくつもあると感じていますが、このライブは、まるでテクストを読むように聴くことができます。詩を音楽の土俵に引きずり出すのではなく、また詩と音楽のコラボレーションにありがちな、言葉が音楽を従えるのものでもない。詩の僅かな隙間、発音のまにまに染み渡り言葉の響きをすっと立たせる。詩と音楽が落ち合うまでの道程は、おそらくは険しいものですが、これは音楽を聴いて詩を知る事ができる、幸福でまれな一例です。
市川洋子
前回の第Q藝術での公演では、徹さん、泰子さん、庄崎さんによって、一つ一つの詩がくっきりと
際立ち、自由に呼吸し、世界を広げ、それでいながら一つの大きな繋がりを持って現れ出でてい
ました。あの豊かな世界を再び、きっとまた新たな姿で体験できることに、感謝です。
木村裕
三人の共演は、詩の言葉を細部まで拡大して見せてくれます。書いた自分も気がつかなかった言葉の可能性を感じ、詩への夢がよみがえってきます。