『無理なく』ってどうやればいいの?
ずっっっっと、いろいろな方から暖かなメッセージをいただきます。ありがとうございます。鬱っぽい時はほんとうに激励されます。
ほぼすべてのメッセージが「無理なくお過ごしください」と締めくくられています。私自身もこころよりそう願うのです。
で、はて、さて、「無理なく」ってどういう状態なのでしょう? と思ってしまいます。
ほとんど「正しい」答えは出てきません。
無理の無い過ごし方、それは過去形のみ語ることができるように感じます。
「あ〜これは無理の無い過ごし方だった。」「これは無理だったよね。」という文脈。
冒険のない人生なんて (ヘレン・ケラー)
何かの限界、結界、ぎりぎり、を人は無意識に求めているのか、と思うことがあります。
それは自分がどこにいるのかを確かめるためであり、次のニンゲンの姿を垣間見たいためか。
重さがあるから飛べる、あらゆる矛盾こそ原動力、嗜好品は、身体に悪いから好きなのかも。
平凡に暮らし、平凡に死んでいく、のはツマラナイ?いや、それこそがドラマ?
泣き叫びながら生まれ出て、ハレとケとケガレを繰り返し、右往左往しながら、アッと言う間に死んでいく。無理をすることで成長したり、怪我したり、失敗したり。
成長したり、良いことがあったりすると「無理」とは言わず、失敗したときに「無理だったのだね」と過去形で言葉を交わす。
今の私もあなたもそのワンシーン上演中。
そもそも今の手の痺れと無力感では演奏は「無理」なのかもしれません。
「はい、わかりました」とずっと家に引きこもっていると、メンタルは落ちます。活気がなくなり、愚痴っぽくなり、被害者意識が増え、多分、白血球は減り免疫は落ちます。痺れと無力感は増すことでしょう。
先日、無理を承知で長野の原始感覚美術祭・松代現代美術祭に出演しました。大自然に触れ、旧友と会い、演奏し、新しい友人ができ、帰宅後に白血球は上昇、気分も晴れていました。
昨日は、台風接近の中、LIVEを実施。多くの出会いと発見と希望を見いだし、役に立ったという満足感に浸り、昂ぶった気持ちで寝る前に久々にビールを飲みました。これは「無理」だったのでしょうか?フラフラの足許で、楽器を倒し、壊し、身体をぶつけ、躓き、共演者に迷惑をかけとなると「無理だったのね」ということになるでしょう。「理」は後付けで、合理にも無理にもなるというところでしょうか?
後付けは、どうにでもなります。
問題は現場。ピンチになったら、それをチャンスに変えていくという即興演奏の極意を使えば良いのです。それを鍛えていきましょう。
知恵とユーモアと即興でのりきるの心だ〜。
(化学薬品で直感や本能が鈍くなることをただただ怖れます。)
ダメだったら「ワタシノジンセイムリダッタノネ」で良いわけで。
エノケンのダイナではないけど「もうどうにとこうにとしやがれ」
Life is either a daring adventure or nothing.
冒険のない人生なんて(ヘレン・ケラー)
今日もノソノソとエアジン横濱何でも音楽祭に出かけます。
ニューヨークからのユウコ・フジヤマ(p)レジー・ニコルソン(d)のゲストです。
20年くらい前のエアジンでも、ニューヨークでも話はありましたが、流れ流れて本日初共演です。行かねば。
昨日は乾千恵さんからの版画と書を飾りました。ありがとうございました!
ホワイエ江古田の反対側の壁は海づくし。(演出のようでした)。