レパートリー 1 ふりかえるまなざし

第Q藝術でのレパートリーにまつわる事をすこしずつ書いてみます。

「ふりかえるまなざし」渡辺洋 「最後の恋」まなざしとして 書肆山田

家が歩いて1分のところにあり、幼稚園・小学校と同窓でした。「とおるちゃん、あそびましょ」。私のことを「とおる」と呼ぶのは彼くらいでした。そう、幼稚園の時は「とおる」だったのです。小学校に上がる時「今日から、おまえは『てつ』だ。」と言われたのをよく覚えています。自分の部屋へもどる廊下でふと立ち止まりました。その風景を覚えています。彼は開成中高・東大・三省堂とエリートコースを、私はドロップアウトしてミュージシャン、一巡りも二巡りもして再会しました。同級生に野田秀樹さんがいて、私は数年前ルーマニアのシビウフェスで半世紀ぶりに会いました。彼はフェスの顔で入場券は秒殺・彼をとりまく研究発表もシンポジウムもあり、ビックリしました。

いっぽふみだすことやはみだすことでうつくしさははじまる・・・

で始まるこの詩は、彼の生前最終詩集の最後の詩。すべてひらがなで書かれています。

「きれい」から「うつくしい」への転換をいっぽふみだすこと、はみだすこと、豊かさや情報におぼれないように心がけよう!行おう!と私たちを誘います。

同じようなことを岡本太郎もニコラウス・アーノンクールも言っていることを思い出します。

科学や、コンピューターを使ってヒトにとって「効果」的なものを割り出し、きれい・カワイイという「商品」のレベルに落とし込んで思考を停め、財布のひもをゆるめる。人間の脳は原始的なものも残しているので、すぐに引っかかってしまいます。

そんなとき、いっぽふみだし、はみだし、ねばりづよく生きていきたいね!と言い残し、洋ちゃんはあっちへ行ってしまいました。

インプロや即興と呼ばれている行為も、人と違うことをして、目立つのではなく、たったいっぽふみだすことで良いのです。

即興の反語は作品ではなく、常識・その人自身なのです。

何年か前、ウテ・フォルカー、ヴォルフガング・ズッフナーというブッパタルでの友人ミュージシャンを呼んでジャンとツアーをしたことがありました。彼らは所謂「有名」インプロバイザーではありません。いっぽふみだすこと、は誰にでも可能な実験・挑戦です。このツアーの主旨を、有名バカテクインプロバイザーの見本市・いつものアレ、ではないようにしたいと思い「もう1つのインプロビゼーション」として実施しました。その契機にもなった詩です。

そんなやさしい誘いの詩ですが、「やるのはいま、いまがそのとき」「ねばりづよく」と怠惰(あとまわし)に流れがちな私たちにナイフを突きつけてくるのも忘れてはなりません。

そうそう、ポレポレ坐で庄﨑隆志さん・南雲麻衣さん・ジャン・サスポータスさんと即興セッションをしたとき、洋さんがご来場くださいました。帰り際に、庄﨑さんが聾であることに全く気がつかなかったと言いました。この詩人にそう言わせた!と強く印象に残っています。

再々会は、もう少し先にさせてください!