久田舜一郎(小鼓)ザイ・クーニン(パフォーマンス)矢萩竜太郎(ダンス)皆藤千香子(ダンス)との共演ということになると、私の活動歴の時々の替わり目となる音楽を網羅するかのようです。徒や疎かにするわけにはいきません。
終了していますので言えますが、実はこのメンバーにジャン・サスポータスさんも予定されていたのです。やむを得ぬ都合により今回来日キャンセルとなり不参加。もしジャンも参加していたらどうなっちゃったのだろう?と思うこと頻り。私の活動歴をもっと露わにするよう(まるで葬式のよう)なので、「ジャンさん不参加はよかったのではないか?」とさえ思いました。状況が状況だけにここで完結したくない。
それにしても私の左手指は動かないわけです。すこしでも楽に、とフライ・オーレ(ジョン・オーレ作のフライト用コントラバス)を持って長野入り。癌治療成功直後のバール・フィリップスさんと共ににオーレさんの工房(リヨン近く)に行き、購入したネックの外れる小さめの楽器です。バールさんの意見も大いに取り入れているこの楽器をバールさんは大変気に入り、ECMの最後?のソロ録音をフライ・オーレで行いました。もうじき発売と思います。所有していた他の楽器はすべて処分したということです。私と取り替えたもう一台のライオン(ガンベル)はニューヨークに嫁いだそうです。フライ・オーレを愛用するのは、もともと軽やかで明るく響く音を好む彼らしいです。しかし、これ1本残し、他の楽器は手放したとは本当にビックリしました。40年住んだサン・フィロメン(1000年前の教会)は、インプロのセンターに献上。資料はニースなどの図書館が保管。終活を思わざるを得ない私としてはさすが~先輩、と頭が下がります。
鈴木ちほさんに運転補助してもらい、炎天下40℃を移動。いやいや暑かった!余裕を持って前々日にゆっくり到着。翌日台湾のアミ族のシャーマン美術家の作品のところでのパフォーマンスを見学し、美術祭主催者らと明日の本番の簡単な打ち合わせをして、そそくさと宿舎へ。演奏への不安は募るばかりのはずですが、私にできることは何もありません。時の過ぎるのを待ちつつ、行動・言葉をできるだけ控え、覚悟を決めるだけです。鍛えられるな~。
久田舜一郎、ザイ・クーニン、矢萩竜太郎、皆藤千香子さんと信濃講堂(木崎夏期大学)の楽屋で会いました。私のささやかな歴史の中で、さまざまな時と場所で出会った人と一堂に会するのは実に感慨深い。それぞれの人が違う場面で「これこそは」と深く私と繋がり、今度はそれぞれを繋げるというのはとても嬉しいしやり甲斐も充実感もあります。これこそトラベシアミッション(橋渡し業務)。
信濃講堂は木崎夏期大学として戦時中も市民大学を貫いた自由・平等・平和の伝統を持っています。ますます身が引き締まります。
いつものように何分か後に演奏が始まり一時間ほどで終わる、という中に私自身がするするとはまっていきます。私の身体の不自由、不調など全く関係がなくなります。発表会ではなく儀式の方に近づいているのかもしれません。
当たり前のように舞台へ楽器を運び場所決めから始めます。事前に何も決めていないので、ここで共演者のさまざまな思惑や願いがでます。わたしは下手にしようと思い、一応楽器を置きましたが、あまりにも久田舜一郎さんと遠いので舞台のど真ん中にしました。何の躊躇もありません。
今の私にはともかく演奏できるかどうか、と言う状態。これだけイノチガケの舞台はおそらく初めてでしょう。自分のためでもなく、共演者のためでもなく、聴衆のためでもなく、主催者のためでもなく、場所のためでもなく、ともかく「ここにいる」ことだけに焦点のある時間でした。
他の言い方をすれば、何も怖いものなし、なんでもできます。思った通り、そして思ったことなどを遙かに越える。気がつけば、動かないはずの指が、もちろんすばやくありませんがなぜか動いています。
久田舜一郎さんと出会った阪神淡路大震災チャリティコンサート(バールさん吉沢さんが一緒でした)、ザイと会ったシンガポールのサブステーション(沢井一恵、ミッシェル・ドネダ、鄭喆祺が一緒でした)、矢萩竜太郎と会った「いずるば」(岸田理生さんの縁でした、いまは正にホームグラウンド)、皆藤千香子さんと会ったのはブッパタールのカフェアダ(ジャン・サスポータスさん、喜多直毅さんが一緒)ワンシーンワンシーンが駆け巡るように思い起こされます。
そして、客席には、つくばアートセンターの篠原さん・池澤さん、有明癌研を紹介してくれた南谷医師、板倉さん関連でしりあった松本の金子医師(2人の優秀な医師がいるのでいつ倒れても大丈夫だね、と冗談っぽくはなしたり)、オリビエ・マヌーリを紹介してくれた森妙子さん、フェスの主催 杉原さん(年を追うごとに親しくなり共感を分かち合っている実感があります)、スタッフ細田さん、多くの人が見守ってくれています。
人々が大いなる自然の中で集い、自己表現やエンターテイメントを越えて、歌い、踊り、飲み、食らう。それが結果的に、最高の自己表現となり、最高のエンターテイメントになり、捧げ物になり、時間と空間と人々を自在に繋げていきます。
演奏後打ち上げで、矢萩竜太郎さんは感極まって、感情を処理できず泣いたり歌ったり抱きついたり、それにザイが答えてマレーの「踊りましょう」という歌を歌い、久田さんと能と表現と舞台の虚構と嘘の違いなどをヨッパライながら討論したり。ハハハハハ~、本当の祭りでした。
抗がん剤による脱毛のため帽子を被ったままでした(哀れを誘うバイアスを避けたかったのです。失礼。)
ともあれ、自然とニンゲンの命が渦巻き、名前を捨て、輝き、謳い上げ、踊り尽くし、飲み、喰らい、泣き、笑い、愛おしんだ木崎湖の美しい一夜でした。わたしは決して忘れない。