丁寧に、面倒くさがらずに・・

丁寧に、面倒くさがらずに・・・

今年最後のワークショップ充実の内に終わりました。ありがとうございました!

毎回、体調不良で、1回は完全にホワイトアウトしてしまったり、第1回ゲスト回の時はミッシェル・ニンにインタビューだけはなんとかこなして、後半のLIVEには参加出来ず帰宅。

そばで見てはいられなくなり、自然に村上さんが司会・進行を補佐してくれることになり、などなど思い出すと、痺れと浮腫はまだまだ活発ですが、この日は、ベストの体調だったかもしれません。

ケモブレイン(化学療法の後遺症で脳の機能低下)もあるのでしょう、言おうとしていたことを直ぐに忘れてしまったりもします。が、それでちょうど良いのでしょう。どんな不調な状態でも忘れずに言えることは、身体の一部になっているもので、知識の披瀝や、講演の技法などはできません。(とにもかくにも、こうやって実施できていることが奇跡とも言えます。そう思うと大概のことは乗り切れます。)

トークセッション中に「齋藤さんにとってトンネル掃除って何ですか?」という質問が出ました。

「トンネル掃除」とは、よくこのワークショップで使われる言葉です。

「表現」とは、膨大な記憶の貯蔵庫とアクセスして身体を通して出てくるものであって、それは学習したものやコレクションしたものの開陳ではない。発見を伴ってしかも他人とシェアできる。まず、そう考えます。

そうすると1人1人の個性は無関係、必要なし? ではいったい個性とはなに?

その答えとして:自分の身体をトンネルに例えてトンネルの形状こそがその人の個性と言えるかもしれない。曲がりくねったもの、極太直線、絡んじゃってとぐろを巻いているもの(あっ、欝やキャンサーかな?)いろいろなトンネルがあり、それがその人の個性。だとするとそのトンネルをすこしでも通りやすくするためにトンネル掃除が日常の仕事だ、という風になるのです。

さて、急な問いに対して私が答えたのは、(私の口を通してでてきた言葉は)、「嘘をつかず、丁寧に、面倒くさがらず」、そこで気づいたのが、今の私にとってトンネル掃除とは「この病気と向き合うということかもしれない」。

なぜ、この病気になったのか?どんな生活・考え方によってこうなったか?特にキャンサーという病気は「その人自身」という特徴を持っているように感じました。過去を思い起こし・反省すること、それは「嘘をつかず、丁寧に、面倒くさがらず生きる」ということでした。

ここ数年、忙しさにかまけて(満足げに)生きていたきた時期の演奏をふり返り、ずいぶん傲慢で強引だったこと、その象徴が還暦記念リサイタルだったのではないか?それもトリの曲バッハ無伴奏6番のホワイトアウトでした。5弦の楽器の為に書かれたこの曲は普通のチェロより高音へ高音へと展開するのですが、コントラバス用にドンドン低音域へ持っていくアレンジを考えつき、案外それが良い感じになって(バッハの偉大さのおかげです)得意になって、このコンサートで披露し喝采を浴びようと、コンサート最後の曲に持って来ていました。

ところが、あに図らんや、記憶がすっ飛んでしまい、途中で挫折。そのまま即興へ切り替えました。ふり返ると、コンサートプログラムに完全即興が無かったことに気がつきます。神の見えざる手による配慮か、私の存在意義でもある「即興」をここで強引にも入れたのか?

即興に変えてからがよかったよ、という評もいただきました。

とまれ、そういう生き方をしていた行き着く先がキャンサーだったのです。音は身体より先に教えてくれていたのです。世の中は聴き取られるべきもの、というジャック・アタリが当たっていました。

(来年の3月30日には、エアジンでのバッハ祭りで改めてバッハを弾きます。暗譜確認も怠らずにやっています。あんまり上手く出来ちゃうとこの先やることがなくなってヤバイ、って誰?いつになっても満足なバッハは弾けないので大丈夫さ〜。)

さて話をWSに戻します。

WS恒例の音楽スタッフ主導による即興実践の時間も上手く流れました。私も全員にお付き合いできました。

皆良く聴き合い、反応しあい、多くの発見の窓がパタっパタっと開いていました。

評を求められ「素晴らしかったよ、そして、そして、さて、さて、問題はこの先。ここからグッと引き上げるにはどうするか?」と言うと多くの人が食いついてきました。このトピックはいずれ話さねばと思っていました。こういうWSの場とライブの場での違いについてです。

即興が自分自身への対義語である、とは、よく話します。善い即興・悪い即興の差はあります。

では、人前で即興するときに有るべき姿がある?

閃きや天の啓示を待っているだけでいいのでしょうか?

お金を頂いて、人が有る場所に集まりそこで即興をするという時に、今日はダメでした、天啓が降りてきませんでした、でいいのか?

人が集まり、お金を頂く時、それは「非日常」でしょう。祭りかもしれません。そこでは「時間と空間とお金」を捧げて(使って)「価値があった」と感じさせることが必要なのかもしれません。時間も空間もお金も掛け替えのないものです。

そこで、喜んでもらおうと、他人と違う技を開陳したり、「より効果的」なことで観客を「興奮」させたりしがちかもしれません。時間と空間とお金に対して価値を感じれば感じるほどそうなるかもしれません。

韓国やマレーのシャーマンと何回か演奏したことがあります。ほとんどの彼らは大変な(とんでもない)技巧を持っています。リハーサルや音合わせの時にスゴイ演奏をし、私も大いに発奮します。普通現代日本(即興・音楽シーン)では、その「技巧」で成り立っているとも言えます。しかし、彼らの本番では、その技巧を使う事は稀です。何を置いても、ともかく「場」を成り立たせ、盛り上げ、非日常にする(儀式化)ことなのです。

そのために戯けて笑わせたりして場を和ませ、儀式(集い)を成り立たせることの方が、技術の開陳の何倍も何倍も必要なのです。ショービズのエンターテイメントのようですが成り立ちが完全に異なっています。

演者が観客に芸を見せ、観客はその代価をお金ではらうという水平関係が現状ですが、儀式・捧げ物では、演者も観客も「上・神」を目指していて、観客の代わりに演者が演じるという図式。

さてさて、実際のライブではどうするか?

そんなこともWS終了までに話したいトピックです。