病気になると、避けたい問いを突きつけられることが多くなります。
指が痺れていつものように演奏ができないという状況になると、「上手い」ということに対する考えを問われます。
即興の場合は、いま・ここ・わたしで出来ることをその純度を上げていくことが大きな主題にあなります。そのため、指が痺れていることを「利用」さえします。「普段ではありえないこの指でどう弾けるのだろう?」ということがその演奏の大きな部分を占めることになります。
痺れているのですから、音程確かに弾けません。また、耳に聞えてきている音を再現することはできず、(特に素早い動き)、その状況で「私はどうする?」という普段でない問いに答えることになります。下手な自分と向き合うのです。
それはそれで「成り立つ」とも言えます。
浮かび上がってくるのが、意外な展開を可能にする素早い動き、俊敏な反応ができないという状況です。
自分でも予測できない展開は奏者にとっても、聴衆にとっても、たいへん刺激的です。逆に言うと、そういう「速度」によって展開が可能になるということ。それは即興というよりは常套手段とも言えるのではないか?そこに頼っていないか?甘えていないか?
さらに言えば「上手い」という「縛り」から解放されていない、と言えないか?クラシックやジャズは特に「上手い」ということの価値が大変高いと言えるでしょう。かくいう私も、気がつけば、演奏者は「上手く」て当たり前、下手なのは宜しくない。方法さえしっかりして、時間を掛ければ「上手く」なるのは当たり前。それでも上手くないのは、方法を間違っているか、怠惰か、卑下することが好きなのか・・・と考えがちになります。
美術の世界では、とうにそういう基準を超えています。音楽でも超えてきています。が、アコースティック楽器に関しては、上手さ・下手さが如実にでてしまうので、まだまだ上手さが条件に留まっているとも言えそうです。枕草子の時代から常人では不可能な演奏をする人を褒めそやしてきました。プロフェッショナルとして貨幣と交換に演奏しているとそういう条件が強く意識されることが多い。
さて、自分が痺れのために「下手」になってしまった。どうしよう?開き直るか?何か別の基準を信じるか?
技術とは、全般的に楽器をマスターすることではなく、自分が演奏したい方法を実現する方法、だと考えてみる。しかし、自分の演奏したい音楽とは、その場で出現するものでもあるので、厳密には規定できません。
堂堂巡りになりそうですね。
手術直前の、喜多直毅さんとのデュオ、マクイーン時田・深山さんとのデュオ、退院直後のSpace Whoでのセッションは、こういう状況でも演奏できた、という事実が今後の大きな支えにも成りました。また長年聴いてくれている聴衆で「このときが今までで一番良かった」なんて言われると、課題はどんどん広がって大きな大きなテーマになっていきます。
現在(8月2日)痺れは厳しく演奏できません・・・(原因は半年続けた抗キャン剤の副作用の蓄積かと思われます。)
さてさて一つ一つの経験から多くを学んで行きまする。生きているおかげです。ありがとう。