Toda Mi Vida続き

自分でもなぜだかよくわかりませんが、昨年11月の入院以来、空前のジャズブームが襲ってきて、ずいぶんと聴きました。サッチモからエレクトリックマイルスまで幅広く。その流れがちょっと一息ついた感じになりました。

そういえば、昨年大変忙しく飛び回っていたときにゼリア・ダンカンとジャック・モレレンバウムのデュオでのミルトン・ナシメント曲集をYouTubeで見付け(まだDVDもCDも出てないもよう)「こういう風に充分時間を掛けて、愛しんで、納得いく音楽をやっていきたいのだ」と思ったものでした。久し振りに聴いてみても同じ印象。

ドリバル・カイミの代表曲集をシコ、カエターノ、ジル、ナナ達が歌ったCDも干からびた川底の裂け目に染み込んでいきました。

ブラジル音楽が輝かしい創造の時期を過ぎて回顧の時期になってしまったことはなんとも寂しい限りですが、仕方ないのでしょう。ジャズもそうでした。

音楽の神様がブラジル上空から移動したのかもしれません。オリンピックが来ると逃げ出す?願わくは、極東の島上空に遊びに来て欲しいものです。ずいぶんと御無沙汰ではありませんか?

閑話休題

Toda Mi Vidaの続き:
バールやミッシェルと会って演奏していると普段と「なにかが決定的に違う」と感じることがあります。

極東の島国では、よほどの例外を除いて、若いときに何らかの外国文化にふれ、興味を持ち、ファンになり、それが嵩じて、さらにさらに嵩じて職業にすら選んだりします。

ファンであることは、悪いことではありません。必要なことです。しかし、ファンとクリエーターは決定的に違う次元のことなのです。そこをハッキリさせる必要がある。

バールやミッシェルは音楽ファンであり、即興ファンでありますが、根本はクリエーターです。だからToda Mi Vidaと言えるのです。

複雑になった社会では昔のように「プロ」と「アマ」で分けることは出来にくくなりました。いずるばのWSでもいつかとりあげねばならぬトピックです。

「だって、しょうがない」と言わない
「これだけは譲れない」と言わない

この相矛盾する二つを併せ持つのがクリエーターの特徴。
それは「根を持つこと」と「羽根を持つこと」を同時に叶えることとも似ています。

「かっこいい」とか「涙」を判断の基準にしない。

ということも特徴かもしれません。生きることは観客ではなくいつでも主役です。

「こうしなければいきていけない」
「こうしなければいきている理由がない」

ということかもしれません。

表現を「プロ」に任せよ、というのとは勿論違います。そのことはずっと言い続けています。

こんな生き方は、止められるなら、止めた方がよっぽど楽。

それを差し置いてもひたすら続ける者たちにして初めてに会う言葉が

Toda Mi Vida