無絃琴の話の続きです。
古典の中にいくつも同じような話を思い出します。
「徒然草」(吉田兼好)
「花は盛りに、月は隈無きをみるものかは」
花は満開を、月は満月を見るものでも無い、ということです。これから咲こうとする花、しぼんでしまった花、にこそ美を求めることが出来る。男女関係も始まりと終わりが面白いとまで言っています。
花は花を見るのでは無く、月は月を見ることでは無い、と言う言い方は、音楽は音楽を聴くのではないという前回の説と相似しています。
(実際、前回投稿した色づいていない紫陽花に「いいね」がいくつもありました。)
「風姿花伝」(世阿弥)
「秘すれば花、秘せずは花なるべからず」
本来言いたかったのは、隠したものは大した物では無い、ということのようですが、この言葉の単純な意味でも含蓄が有ります。
大した物を隠していなくても、隠すことが大事、という意味も面白い。それは、わび・さびの美学にも通じます。不足や閑寂の中に美を見いだす、美学です。豊かさは、右肩上がりではなく、自足する心にある、という文化。そこには絢爛豪華を極めた後の感覚さえあるでしょうが、日常生活の知恵でもありますね。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの「ハムレット・マシーン」が、話題になったのは、長大な脚本を書いた後に、「大事な部分」「重要な部分」をすべて捨てて残ったボロボロの脚本でやったところ、大変は評価を受けた、これと似ています。
「しどけない」という感覚、だらしないけれど、ステキという感じも外国人に伝えにくい感覚です。靴下に必ず穴を開けておくオシャレとか、わざと下手なピアニストを採用した土方巽さん、とかジャン・サスポータスさんとも何回か試みましたが、まだ十分に話し合えたことが有りません。洗練するという一方通行ではないと言う感覚。所詮、たいしたことは無い、それよりは、無いものを想像上素晴らしいものと見なして感覚を遊ぶ、という感じでしょうか。
「もっと、もっと」から逃れる知恵とも言えます。もっともっとには限りが有りません。そんなことに汲々とするよりも心の安寧を求めて清貧に喜びを見いだすこと。さらに言えば、「効果」の罠から逃れる知恵にもなります。「効果」にも切りがありませんが、効果に従属させられるよりは、効果無くとも自足出来る方がよっぽど毎日楽しいという知恵。
巧拙で言うと、巧よりも拙の方に可能性がある、という文化、金持ちは恥ずかしいという文化、さらに言えば、正しいことは、何にもならないという文化があるのではないでしょうか。
人は、小金を持つとろくな事が無いので祭りで使っちゃうのさ、という東南アジアやブラジルの知恵もあります。
「土神と狐」(宮沢賢治)
このところ、何回か上演している演目です。
狐の「高そうな知性」と「上等なものをいくつも持っている」という「嘘」に嫉妬した土神が、樺の木(女性)との三角関係の中、ヒョンなことから狐を殺してしまうという物語。しかし殺された狐が笑みを浮かべている。(もう嘘をつかなくて済む)
「水屋の富」古典落語
富くじの一等をあててしまった水屋(水を売って歩く)が、当たったお金を取られるのではないか、ばかりに気をつかって疲れ果てます。最後に泥棒に盗まれますが、喜んで「これでユックリ寝ることが出来る」という落ち。
演奏も同様です。
言いたいことをすべて言い尽くすこと、得意技をすべて列挙すること、もっともっと効果をあげること、と言う方向はあまり感心しません。即興から遠くなります。その時その場でしかできないことを考慮に入れていません。ふとしたユーモアも出にくいわけです。上手く出来ても、想像や才能の範囲を越えることは出来ません。
言いたいことを言い尽くしたってしょうがない、という心意気が大事です。足りない位で丁度良いのでしょう。その足りない部分に、その時・その場・そこの人々が気持ちや願いを放り込むことが出来るのです。そうして初めて「即興」が成り立ち、刻み込むことができるのでしょう。なるべく目をつぶらないで、ボヤッと見ることも大事です。
聴く・待つ・信じる ということの実践ができるか?
人を聴く、人を待つ、人を信じる
人に自分の演奏をさせる!まで行けばサイコー!