ワークショップの中身って?

ワークショップの様子が分かりにくいという印象があるようです。スミマセン。少し説明をします。

私自身さまざまなワークショップを知っているわけではなく、実は、ワークショップと言う言葉を使うのが妥当なのかもよく分かっていません。敬愛するチャールス・ミンガス(ジャズベーシスト・作曲家)がワークショップと言う言葉を使っていたので愛着があるくらいです。

前回の準備会(第0回)がとても嬉しかったのは、第一線で活躍しているミュージシャン・ダンサー・美術家達と、ライブやCDのヘビーリスナー(もはや、聴き手の第一線のプロとさえ言いたい程の知識と見識をもつ)の活発な意見、主婦、ダウン症ダンサーなどなどが本当に同等に同格に「その場」にいたことです。

かつて「私作る人」「私食べる人」というキャッチコピーがウーマンリブの強力な批難を浴びたことがありました。

できれば心理学、哲学、医学、人類学、民俗学などなどからのご意見も伺いたいし、さらには、日常の会話、料理、掃除、ありとあらゆる出来事からのご意見も同格に聞きたいと思っているのです。

会話だって大いなる即興です。最近流行の「忖度」も即興でしょう。人生は即興なのだから、なにも舞台であえて即興をする必要はないと土方巽さんが言及されているとのこと。

音楽を奏でる人も聴く人も当然同格なはず。生きていることにおいていささかも違うわけは有り得ない。音楽を演奏する人にすべて託す、任せるなどモッタイナイ。音を出す方が面白い。

「音」という漢字の成り立ちを白川静さんは大変興味のある説をおっしゃっています。このあたりを突破口として話を始めてみます。

志ん生さんの口調で言えば、「え〜、ニンゲンというものは」、矛盾した望みを持つもの、という視点から出発しましょう。根を持つことと羽根を持つことです。根付きたいのに逃げたい、留まりたいのに掠われたい。バッハも即興も大好き。自分の存在を主張したいのに匿名になりたい。変わりたくないのに変化したい。純粋を愛するのに、混ざることを欲する。天敵から身を守るためのハイブリッド優勢。前拍の大切さと古武術の気配を消す方法も得たい。どんな工夫も無駄と分かっていながらも効果を求める・・・・

音楽は人から「考える」ことを奪うと同時に「考える」チャンスをくれる。
アウシュビッツの死の行進にも使われるし、ナチス高官たちのパーティでも同じ曲が使われる。
音楽はいつ成立するのか?音が出される前?音が出ているとき?音が終わった後?

どうやってそのさまざまな矛盾を克服できるでしょうか?それがこのワークショップの目的かもしれません。

ヒントとして考えているのが「身体に聴く」ことです。

私たちの身体は38億年の生命史の頂点に居ます。それは天行と同じように間違いようがない。この身体を自分の所有物と考えないで尊重してその意見を聴くのです。

かつて野口三千三さんが「きく」を「貞く」と書いて素晴らしい思考を展開しています。

身体に聴くって言っても具体的に考えるヒントはどういう所から持って来るのか?

例えば、振動・振れること、音も色も振動です。共振・共鳴・さわり・同期・ビブラート・アウフタクト・ダンス・スウィング・揺れることは混ざること・身体の70%は水・その水の揺れ・・・

楽しければ良いじゃん?カッコイイから良いじゃん?涙が出るほど感動したのだからそれで良いじゃん?というところから、みなさんと一緒にいろいろな意見を交わして一歩進んでみたい、はみだしてみたい、踏みだしてみたいと思っているのです。

一つ提案があります。

やっぱり自分で音を出しながら実体験をすることも必要でしょう。
かつて旭川のギャラリーモケラモケラで実践した「女達の一弦・ただし少し男もいる」では、流木を拾ってきて一弦琴を自作、プレゼンテーションまで持って行き得がたい経験をしました。楽器というと上手くなければ、音がキレイで大きくハッキリ出なければ、美しくなければ、イヤな練習をしなければ、という前提をさっぱり忘れ去ってやるのです。

みんなで自作一弦琴オーケストラを作ってみたらどうでしょう?

そこには「効果とはなにか?」「新しいって何?」「興味って」「好奇心って」何?という基本的な質問を喚起します。効果を求めて原爆・原子力発電所爆発まで行ってしまった私たち。

あまり書いては、書いたことに縛られそうなのでこの辺で止めます。

こんな感じです〜。