What is this thing called JAZZ?
22日にエアジンで「ジャズ?」をやるのでつらつら考えていました。
「ジャズ」あるいは「ジャズ的な何か」が私の道を大きく開いてくれたことはどう考えても確実です。
しかし、私の身体の中に「ブルース」や「4ビート」が無い!という事に早くから気づいてしまい、自分のやる音楽が「ジャズ」ではない、という意識が自然に生まれ、それが自分の音楽の「存在意義」でもあり、ジャズに対する劣等感でもありました。私の身体には2ビートはあり(それ故にか、タンゴやサンバ、古いジャズは身体に親しい)、3拍子5拍子となるとなにしろ闇雲に好きです。4ビート8ビートは希薄で、それらを通り越して民族音楽系の16ビートは好きなのです。個人の民族的な出自とか、ミームとかに関係するのでしょう。
この40年間何回か、ジャズ的なものを演奏する機会を作りましたが、どうしても続きません。やはり私の「骨の髄」にあるものではないのだな、と思わざるを得ませんでした。
自分の「骨の髄」にあるものをやるしか意味はない=他者では代えがきかず、自分にしか出来ないことをすることこそが人生と思っていました。邦楽や雅楽・能楽とも共演をしましたが、そちらの世界に入り込むには遅きに失していました。そもそもコントラバスを始めたのさえ遅かったのです。
キャリアの始まりの頃から外国での演奏に恵まれました。アトランタでの演奏会の後、アメリカの女性が「今日の演奏は素晴らしかった。でも、なぜ日本のあなたが西洋楽器を弾いて西洋音楽をやるの?」という素朴な質問をくれました。「ん~」質問の本当の意味が分からずごまかして答えましたが、日本に帰るや、その意味がドンドン大きくなってきました。彼らにとってはアフロアメリカンの歌手が着物を着て演歌を歌う、アングロサクソンが白塗りをして舞踏をやっていることと鏡だったのだと思います。
そうだ、もっともだ、と納得し、ジャズ、タンゴ、ブラジル、韓国、フォルクローレ、などなどのジャンルの中から一つを選ぶことは出来ず、「インプロ」にはその問題から離れることもできるという想像もあり、インプロからは離れずにキャリアを重ねて来ました。
「ブルース」も「ドゥエンデ」も「恨」も「サウダージ」もそれなりに十分感じることができますが、残念ながらどれか一つに自分を埋没させることは出来ないのです。でも、音楽をしたい!のです。よりピッタリくる形式を探す過程とも言えます。
6年前の3・11以後、さまざまな理由があり日本語の「うた」を作り始めました。そして、昨年11月初め、入院以来、自分でもよく分からないのですが、ジャズを聴き続けました。ブラジルやタンゴ、クラシック、インプロ、伝統・民族音楽ばかりだったこの30年、不思議でした。ジャズを専ら聴いていたのは最初の10年だけでした。(しかし本当に大量に浴びました。)
ジェイムス・P・ジョンソン、ベッシー・スミスからサッチモ、ハインズ、エリントン、ミンガス、パウエル、マイルス、モンク、ドルフィー、ホリデイ、エバンス、オーネット、ブレイ、コリア、キース、ヒル、ジュフリー、プーさん、ニコルズなどなど幅広く聴いていました。とくにサッチモ、エリントン、マイルスでした。気がつくと「王道」の三人です。
ジャズの歴史を俯瞰することもある程度できましたし、高校生からの自分の人生をふり返ることもできました。
ジャズの特徴として(良い悪いの判断ではありません。念のため。)
・ゴチャゴチャとむずかしいこと言うな!ともかくやって結果が良ければ良いんだ!やってみろよ!というシンプルさ・潔さがあります。
・「大きな音の勝ち」、「ブリブリと咆哮し、ドシャメシャと叩きつける」管楽器・ドラムスの優位が黙認されます。熱量の高いことは正しいとされています。それは、社会とリスナー側の社会でのストレス度とも関係してくるでしょう。アタマにきていて思いっきり叫び、壊したい!
・マイクがあれば使えば良いじゃん、聞こえなくちゃ話にならないだろ、という面も自然にでてきます。アメリカ主体のエンターテイメントの隆盛と同期しているので、良いもの=ギャラの高いもの=高度な音楽性ということも成り立ってきました。そんなんじゃカネを取れないよ、というのが重要な問いでした。生音に拘ったって聞こえなきゃダメでしょ。
・ジャズでは、1音聴いたら誰が演奏しているかわかる、というのが大いなる美徳です。アドリブはあくまで個人の表現であるので、他とどう違うのか、が問われ、自然に天才を持ち上げられます。並の判断から飛躍できる展開に喝采をします。影にはドラッグ・アルコール・男女など見えます。
・音とは何だろう?とか、沈黙と音の対比とか、自分はどこから来て、どこへ行くのか、そもそもなんで人は音楽をするのか?などは問題にもなりませんでした。それらはヨーロッパ即興音楽に特徴付けられるのかもしれません。
・アフロアメリカンの社会運動と連動したときに音楽もフリージャズなど叫びに傾倒し盛り上がった歴史もありました。しかし、マイケル・ジャクソンがでて、カール・ルイスが陸上競技をショーにまで持ち上げ、ロック・ポピュラーマーケットの巨大化に大なり小なり反対なりに影響されながら推移してきました。
・モダンジャズ・モードジャズからフリージャズに行き着くとその先は、それぞれの出自に目を向け、自らのルーツ探しへ、自らの民族音楽へと行き、そこでヨーロッパ即興音楽の流れとも「再会」する。ジャズ自体は大学で教えるものとなり『保守』のシンボルにもなっている面もあります。
以上、私いつものジャズ観です。(ちょっと飽き飽きしてきましたので、次回はスウィング・揺れる・共振する・身体の中の水・前拍・ダンス・ビブラート・共鳴する・触る・混ざるなどのキーワードで少し広い視野から考えたいです。)
そんな私が今、ジャズを、というのは、如何に?
3・11以後の「歌」作りが呼び水になっていることもあるでしょうし、病を得てからは「オリジナリティ」に拘ることが確実に減っているようにも思います。もっと大事なものがある!実感。
喧噪を、考えないで良い時間・空間を、叫びも、祝祭、バカ騒ぎを、そして背中を押してくれるビートを、ということなのか?フリーやインプロに入らずに踏ん張って演奏すると何がでてくるのかに興味ありです。5分前に初めて出会って、A△とかE7+とか暗号のようなものをみんなでみて演奏できる、という形式は音楽の歴史の中でもたいへん優れていると思っています。
ジャンルとは、正反対なものを同胞することによって、より強固にかつ可能性を秘めてくるのではないかと思います。その例として「ジャズ・ジャズ的なもの」はとても興味深い。エリントンの超有名曲は、アドリブフレーズまで全部決まっていてその通り毎回演奏しますが、それを「ジャズじゃない」という人は皆無でしょう。フリージャズが現れたとき代表的なセシル・テイラーは「ユニットストラクチャー」を発表しました。フリーじゃなくて「構造」、スティーブ・レイシーはフリーではなく、音階(スケール)の探求を続けていました。
私の好きなコントラバスには、空間や無音が必須です。それ故、フリージャズ的アプローチには無理があります。そんな鬼っ子な私をジャンル「ジャズ・ジャズ的なもの」は受け入れれてくれるでしょうか?
3月22日 横濱エアジン 齋藤徹(ベース)・かみむら泰一(サックス)・石田幹雄(ピアノ) トリオ です。私のオリジナル曲・スタンダード曲を選曲中です。
お経届かないジャズの騒音(種田山頭火)
It don’t mean a thing if it ain’t got that swing.(Duke Ellington)