ちょっと冷静に

なんとかワークショップ第0回・準備会が、期待以上の成果を上げたと思ったので、ちょっと浮かれてしまいました。(現状はあいかわらずの副作用とのイタチごっこをしています。ご覧のように浮腫んでいます。)

冷静になると、「伝える事」は、本当に「ある」のか、伝えるものって何?と考えてしまいます。

「情報」「音」「コトバ」?ホント?何か嘘くさい。

伝えることのできる最大のことは「生きている」という存在だけかもしれません。

伝わるということは、「その人の存在」を通してはじめて伝わるのだと感じます。

その存在を通してでてきた「コトバ」「音」「情報」であればこそ、誰かに「何か(言葉でも音でも情報でも無いかも知れません)が」「伝わり」、時の流れを止め、疑問や質問を喚起し、気づきをもたらし、自分を発見させる。

コトバを伝えるのでも、音を伝えるのでも、情報を伝えるのでもないのかもしれません。さらに言えば、私が存在して、あなたが存在していると言うことが「共振」することでお互いに気づくことが喜びなのかもしれません。

コトバを発し、音を発するのは、自分自身がそのコトバや音を聴くためです。自分は何を言うのだろう?自分はどんな音をだすのだろう?耳と耳の間に座って聴くのです。(アイヌ神謡集より)

本来、自分の身体や心は、自分が所有しているのでは無いということを再認識するのです。

漢字の語源から言うと、音は聴くものではない、というのは白川静さんの説です。
誰もハムレットの筋を知るために劇場に行きません。
聲明の「無言唄」「虚階」、ジョン・ケージの4分33秒、「音」はありません。
海童道は、良いところばかりを聴かせようとする奏者に反対するために舞台で寝たという伝説があります。
舞台で寝たを言えば五代目古今亭志ん生さんは酔って高座で寝てしまったのですが、「寝かしとけ」とファンが寝た姿を十分に楽しんだと言います。近年のジョアン・ジルベルトの公演でも途中で10分以上なぞの沈黙があるそうです。志ん生さんの長年のファンは彼の落語より、気まぐれにやる大津江を喜んだと言います。

準備万端して、納得するまで成し遂げた「本番」より、気楽にやったアンコールによりその人のホンモノを感じたりすることも良くあります。

ノイズの意義は、ノイズのためではなく、ノイズが終わった後の「沈黙」を際立たせるためと言えます。
さらに言えば音楽は音楽が終わったときに始まる、とさえも言えるのかもしれません。
memento mori 死を思うことで生は輝きます。

第0回にお集まりいただいた方々が、所謂「表現者」だけでなく、受ける側の人、普通の人も同格に、自然に「そこに居」ました。そういう地平が垣間見えたから嬉しかったのです。生きていると言うことに差があるはずが無い。全員プロです。

生きていると言うこと以上に大事なことは無い、なんて当たり前のことに気づきます。大切に大切に生きたいと思います。このワークショップはそんなシリーズにしたい。

あんまり上手くまとまってしまうと終わってしまいそうなので、毎回の破綻もお約束!