人はさまざまな「事情」のもとで生きている、生きざるを得ない。な〜んにも差し障りの無い人生はありえないでしょう。
私の周囲を見ると、特殊な事情(障がいなど)を持っている表現者は、その事情を表に出さないようにしている方が多いように思います。(プロフィールなどにも載せないし、それと分かる写真を使用しない)。その事情が「バイアス・偏見」となりがちなことをよく知っているからでしょう。「障がいがあるにしては、良くやっている」とか「障がいがあるとは思えない」とか「可哀想ね、でもガンバって!」などという言葉は「作品」自体を評価していないし、聞き飽きているでしょう。聞き流すのになれているかもしれませんし、いっそのこと利用してやろうというスタッフもでてくるでしょう。
実際、付帯する「物語」に人は興味を持ち、そこを取り上げることも人の好むところです。それは人が生きていると言う事実(すべての人がシェアできる)が1番のリアリティであるからです。しかし、「だってにんげんだもの」ということで、言い訳がましく、正当化して欲しくもありません。
本来、事情と表現は違う次元のトピックです。しかし、人が生きているということは事情だらけ、人に普通・特殊などはなく、言ってみればすべての人は「例外」です。その例外的部分が物語を生み、動機を生み、意欲を生み、好奇心を生み、作品になることも多く、そこに共感する人も多い。そこに喜怒哀楽があり、喜怒哀楽に入りきらない感情があり、感情の振幅が大きくなり、ふれあいが起こり、共振し、混ざり化学反応が起こる。それは否定できません。
私の病気という「事情」とライブは関係なく、同時に、関係あります。多くの再会があり、喜び合いがあります。実際私が演奏現場に行き、リハをしてああだこうだとアイディアを出し合い、即興的ヒラメキを共有し、聴衆・スタッフ・会場と一緒に祝祭的な空間を楽しむ。これ以上のことは今の私にはありません。
昨日・一昨日とそんな日々でした。さてこれから最終日。行ってきます!