ライオンと喜屋武

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ロジャーターナーさんのアドバイスを守って寝室に楽器を運び入れました。ライオンが守り神のようです。アリガタヤアリガタヤ。サンキューロジャー。ウチナーの友人に「キャンは喜屋武と書くのです」と教わりました。ライオンと喜屋武が、字面だけですが、なぜかどこかで繋がっているような想像をしました。
 
 
病院には病院の独特の決め事があります。私にとって一番興味深かったのが看護婦さんと患者との関係です。特に、看護婦さんが患者に対し、何かの作業中、会話の間が空いてしまうとすぐに「よいっしょ」と言う看護婦さんが大変多いです。
 
看護婦さんと患者の関係を母子あるいは、幼稚園児と先生のように擬似的に作り上げてるように思われます。患者側とすればシモの世話、体の隅々まで何から何まで赤ん坊のようにお任せなのですから、日常の自分ではなく、擬似的に子供・幼稚園児になってしまえば楽です。ちょっとしたことをなんでも気軽に話せるし(病状の変化に関して言えばこれは重要です)甘えることもできるのです。日常の役割を持った自分では決してできないことです。ちょっとした気分転換になり、役割を替えることのできる快感でさえあります。
 
注射の針を刺す度に「ごめんなさいね」と言います。これも初めは違和感がありましたがじきになれました。
 
 
何かの作業をしている時に、「間が空く」と「よいしょ」というのは、なにかを思い起こさせました。そうでした そうでした。「音楽」です。最初の入院の前にちょっと考えていた「音楽は、人に普段気がつかないことを思い出させることができるのと同時に、人を考えさせないようにすることができるもの」「考える間を埋めてしまい、流されていく時にも有効なもの」という考え方です。
 
意外な所で一致したのでちょっと驚きでした。
 
患者側は、妙な間が空くと自分の病状への疑問や、スキンシップを含む日常では気詰まりな人間関係をなんとか通り過ぎなければなりません。そこで「よいしょ」が大変有効になります。
 
世の「潤滑油」としての言葉/音楽、同時に考えさせなくさせる、流される為の言葉/音楽
音楽への憎しみ であり 言葉への憎しみ にもなるのか?
 
アウシュヴィッツで機能した音楽 (キニャール), そして いつも私達を弄ぶ言葉達
 
果たして「正しい」音楽 言葉 って存在するものだろうか?
 
音楽も言葉も元を正せば、単なる振動。
 
細胞膜が 同期する振動と同期しない振動はあるような気がします。
 
その差は何?
 
 
ノーテンキ ハクナマタタ ナンクルナイサ イロナンショ ジャマイカ カマヘンカマヘン マイペンラーイ
 
本日の副作用
食欲(改善傾向)倦怠感(持続)手足先の痺れ・冷感(若干アリ)・頭髪(無事)
 
本日の嬉しさ
Andrew Hill ( So in love )/ Paul Bley ( Notes on Ornette )/Glenn Gould ( Bach Toccata/Partitas / Pastoral リスト編曲)
バリ島物語(さそうあきら)/ 気の発見(五木寛之・望月勇)/ レモンとねずみ(石垣りん)
アンクルアントのニンニク・ヤーコン・味噌
築地から煮干し
お見舞いの花・友人・本
 
 

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