もともとはノホホンとしてた?

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昨日までの窓の景色とはうって変わって自宅ベッドから見えるのは物干し竿と電線の青空です。これはこれでOKさ〜。

さて、生き方・考え方の変更を目指すときです。やるなら「今」。本日の投稿は、書いてみることで思い出すこと、思い当たることがあるのでは?という目的ですので、極私的です。悪しからず。

大きな大きな節目です。還暦とは良く出来ています。60年で作り上げた私の「個性」を素直に見直し、じっくり、根本的に修正していくわけですので、根は深いし、なかなか「痛い」でしょうね。

とりあえず私の「素直でない」性格から見ていきたいと思います。

大元にあるのは「信じるために疑う」という姿勢かもしれません。もともと信じやすく、涙もろく、騙されやすく、柔な性格ですので、なかなかこの競争社会で生きるのはしんどいです。そのため、信じたいがゆえに疑うという基本姿勢がいつの間にか根付いてしまったのかもしれません。

また、空気を読むことを暗黙の内に指示されているような社会で、その場の雰囲気を壊すのが怖い、という性格も自分で分かっていました。空気を読むこと上手な小市民ですので、子供の頃からその場を取り繕うようなウソを良くつきました。回りにはバレバレだったのかもしれませんが、本人は必死でつじつまを合わせては、上手く行くと胸をなで下ろしていました。あのドキドキ感はちょっと忘れられません。

生まれ育った時期が所得倍増、戦後は終わった、左翼教育全盛でした。しかし、コネやカネやチカラ、学歴があるのもが勝つ傾向はすでに確率されていました。しかし、まだ、「反体制」が存在していました。違う価値観を持つことが今よりは認められていました。

学歴を高くして、良い就職=給料の多い職について世の中を面白おかしく渡っていくことが多くの人に許されていました。私の親の教育もまさにそれでした。(90歳を越えたこのごろになって絵に興味を持ち「人生カネだけじゃないんだよね」なんて言っています。遅い〜って。)

小学生のころから当時は珍しかった進学塾へ行かされました。私鉄に乗って4つ目。そこの先生はハッキリとトラウマになっています。「キレイに、早く」答案を書くことが何よりも大事という主義でした。ある時には、それが余りにストレスフルなので、恐怖を覚えおしっこをちびりそうになりました。「これは私には無理、合っていない、いったい何をやっているのだ?」と心底から思いました。

それ以後、競争が苛烈になると自分からドロップアウトしたり、わざと忌避する傾向が生まれたのかも知れません。ともかく競争の嫌いな人間が形成されたと思います。もともと「のんびり」した本性だったのでしょうか?よくわかりません。

嘘をつくことがいかにスリリングであっても、本来の嘘つきにはなれる大きさはありません。アカデミズムに残るか、と回りが思っていたときに、「残ってもやって行けそうだけれど、ウソをつき続けることにならないだろうか?」という克服できない疑問がわき起こり、突如としてベースを弾き始めました。

アカデミズムをドロップアウトして音楽へ行った(逃げた)私にとっては、私とは何だろう?どこから来て、どこへ行くのか?私にしかできないことって何だろう?それをやる方法は?などが大事でした。幼い頃から音楽の修行を始め「天才・秀才」と呼ばれながら才能を華開かせてきた人達が回りにたくさんいます。それはもう圧倒的でした。まず「身体」「心」が演奏・音楽に特化されているのです。それにかなうわけはありません。

「仕事」として音楽を選んだのではなく「生き方」として選んだのだ、という免罪符を大事にして来ました。後日、であう優れた表現者の多くが同じ仲間だったことを気がつくことになるのですが・・・

そんなミュージシャンが寄る辺とするのは、いままでの自分を総動員することでした。そして自分しか出来ないことはなにか?自分の代わりが効かないことって何だ?というところを根拠地にします。

当然のように「こだわり」です。それは良い様に働くときもあれば、わだかまりとなることもあります。良い面ばかり見ていたのですね。ここだ!いまだ!と思ったときは何があろうと手に入れようとしました。そして案外上手く行って来ました。良い情報!新しい情報!ホンモノの情報!を追い求めつづけました。やれガット弦、松脂、アジア、邦楽、雅楽、能楽、ノイズ、ヨーロッパインプロ、ダンス、映像、美術、サブカルチャーなどなど・・「ホンモノ指向」、そこには逆の意味での権力志向があったのかもしれません。

素晴らしい人に出会う才能だけは図抜けていて、その時、その場で最適な人達に会えたこともこの傾向を肯定させてきたのです。幸せでした。

そういう生き方全てのツケが回ってきたのではないか?
それを変えなければいけないのではないか?
それをキャンは教えてくれているのではないか?

ありのままで、むりせず、自分独自でなくても、誰でも出来ても、超絶テクニックでなくても、ゆっくりゆっくり、かっこわるくても、弱さ丸出しでも、泣いても、転んでも、

「いま」でなければ、「ここ」でなければ、「わたし」でなければできないことを突き詰めれば、あるいは、こだわらなければ、「いま」でもない、「ここ」でもない、「わたし」でもないところに行けるのではないか?

ノーテンキ ハクナマタタ ナンクルナイサ  イロナンシャ  ジャマイカ  カマヘンカマヘン
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