ドミニク・リピコーさんのことは伝えなければと思います。私自身が今週、一生を決めるような闘病中なのですが、それだからこそ伝えたいのです。死因は心臓発作、3週間前に倒れ、一時間心臓が止まっていたそうで以後は昏睡から覚めず永眠。ヨーロッパ中いや世界中の多くの人が悲嘆に暮れています。
インプロヴィゼーションでは世界広しと言え、場を提供したと言うことにおいて、最大の貢献をした人であると私は思います。私は「騒」の恵美さん、そしてドミニクさんという2人の最大の恩人に再び会うことは出来ない。
演劇祭などで有名なナンシー(寺山修司さんや舞踏ゆかり)の郊外の小さな街ヴァンドゥーブルで毎年一回Musique Actionというインプロのフェスティバルを一人で何十年も仕切りました。このフェスは、ジャズ系のものは皆無、もっぱらインプロヴィゼーション、そして現代音楽、インプロ系のロックだけでした。時には現代建築もやっていました。同じ主旨のモントリオール ヴィクトリアヴィルフェスとは共同していました。
アンドレ・マルロー文化センターを中心に長いときは1週間、素晴らしいプログラミングでした。ヨーロッパ各都市からインプロバイザーや現代音楽演奏家たちが「聴く」ためにだけやってきていたのには驚き。ナンシーからヴァンドゥーブルへのアクセスは車しかなく、みんな乗り合いできます。テントを持ってヨーロッパ中からハイクしてくる若者も大勢。日本人のツーリストがタクシーを呼んでるぜ!と話題になりました。
我が朋ミッシェル・ドネダに最初にであって演奏したのもここ、今使っているガン&ベルナーデルのライオンヘッドの楽器「BARRE」にであったのもここ、沢井一恵さん、今井和雄さん、久田舜一郎さんを「どうだい!日本にも凄いヤツらがいるだろ?」と紹介したのもここでした。久田舜一郎さんがIRCAMの秀才達、ブルキナファソの音楽家を仰天させた時は「我が意を得たり」と思ったものです。私が多くのミュージシャン・ダンサーに会ったのもここでした。
ドミニクさんに関して忘れられないことは多いのですが、二つだけ挙げます。(今の私の体力の限界)
かつて、もらえるはずと思って、完全に当てにしていた日本からの渡航費援助が急に得られないことになり、どうしようか?と深刻な面持ちでミッシェルとドミニクに相談しに行きました。思い切って現状を言うと「What’s next?」(その次の問題はなんだい?)とあっさり言うのでした。渡航費援助が降りないなんてあたりまえさ、他にもこまったことがあるはずだ、それはなんだい?という感じだったのです。あっけにとられました。
渡航費だけで実際右往左往するミュージシャンにとっては驚きでした。(今もその状態は続いています)
「音楽はパブリックサービス(公共サービス)なんだよ」と本気で言われたこともありました。ミッシェルやニンとミュージック・アクシオンに出るとその帰りにフランス中のアソシアシオン(NPO的文化団体)を回ってツアーすることが多くありました。各地で歓迎されてとても充実しました。その資金はミュージック・アクシオンから出ていたのです。アソシアシオンとしては寝るところ、一緒に食べる食べ物・飲み物を用意するだけ。なるほどパブリックサービスだ!と思いました。特にインプロというジャンルは資本主義や商業主義と結びつかないためになおさらパブリックサービスとしてみんなに供給しなければならないというわけなのです。
地域に根付く子供達のインプロ発表もありました。アンドレ・マルロー文化センターでは低所得者たちに住居を提供していて、その人達と一緒に無料チケットで大食堂を使います。なかなか美味しいです。こういうことすべてが「パブリックサービス」なのでしょう。
我が国が追いつくのはいつのことでしょうか?
ともかくそんな大きな人を失ってしまいました。
バール・フィリップスから第一報がはいりました。ミッシェル・ドネダはこんな状態の私に伝えて良いものか悩み抜いていたとのこと。「テツよ、きっと病気を生き抜いて一緒に我らが友ドムに追悼演奏しなければならない」とメールが来ました。
生き延びなければ!