庄﨑さんとのセッションを終えるといつも清々しい気持ちになります。
共演者が、聴衆が「聞こえても」「聞こえなくても」私は常に音で、存在で、共演者に、聴衆に、自分自身に「呼びかけ続け」「問いかけ続ける」という原点を思い出すからでしょうか?
根を持つことと羽を持つ事の矛盾の中で人は生きて行くのか?なんて考えてしまいます。
例えば、歌や絵や踊りの上手な人が自然に工夫を重ねてだんだんと洗練させて行きます。いかに効果的になるか、を暗黙の前提として。そのためにアンテナを張りすべての知覚を開き「反応」していきます。寝食を忘れて没頭したり。
一方、何をやっても無駄、効果など皮相、知れば知るほどわからなくなる、という気持ちもつねにあります。結局すべてを決めるのはその人の「器」の大小、形。侘び寂びや道教的な諦観に通じたりします。
工夫・才能・努力が人の進歩を作ってきたとも言えるし、太陽の下では「新しいものなし」も同様に真理。信じるために疑い、別れるために出会を繰り返す。死ぬために生き続ける。嗚呼、何とかして生き続けたい。