揺れ(スウィング)・痙攣・回転・ジャンプ・緊張と弛緩、これらダンスの基本的動作に共通するのは何でしょう?
それは「混ぜる」こと。水の中で粉や液体・個体を溶かし、2つ以上の要素を混ぜる。
混ぜるのは何のため?純から逃れるため。
純(ピュア)は弱く、生存競争に向かないのです。天敵が現れると全滅してしまう。
生物としてのヒトもその大原則から自由ではないでしょう。
花はなぜ美しいのか?あるいはなぜ美しいと感じるのか?
雌しべと雄しべを考えます。ほとんどの花が自らの雄しべからの花粉を蝶や蜂や風の力で雌しべに受粉します。ならばなぜ花を咲かせるのか?そしてそれが「美しい」のか?
私が考えつく唯一の答えは「他の可能性のため」。他の花粉が雌しべに受粉する可能性を大事にするため。それが生物として「正しい」ために我々も蝶も蜂も花に惹かれる・美しいと感じる。
また野口三千三さんからの引用です。「花は逆立ちして性器を誇らしげに見せている」。
色も音も振動です。音にとっての「混ぜる」はノイズ成分。「さわり」(三味線のノイズ発生装置)は何も日本の伝統的特許ではなく、ドラムスの中心楽器「スネアドラム」には響き線でノイズを発生させ、バラフォン・コギリ(カクラバ・ロビさんの楽器)の共鳴体のヒョウタンに蜘蛛の巣を張りノイズを発生させる。シンバルにはシズルをつけノイズを持続させる、などなど多くの例がすぐに見つかります。
ペルーの民族楽器「カホン」も響き線を内部に装着してノイズを出します。フラメンコギターの搔き鳴らし(ラスゲアード)や音程を出さず打楽器のようにギターでリズムを出す奏法とカホンの響き線の音がとても似ていて相性がバッチリだったので、スペインに持って帰り今や世界的大ブームになっています。その人こそパコ・デ・ルシア。
コントラバスの大きさ(弦の長さと太さ)はまさしくこのノイズのためなのです。お寺の梵鐘のジ~ンとくる感じに対して、パトカーや消防車・救急車のサイレンはノイズ成分を取り除き、なるべく多くの人に聞こえるように「うるさく」響くようにしてあります。
ノイズ成分を隠蔽するために音楽(「カンタータ(うたうもの)とソナタ(奏でるもの)とポエム(語るもの)」が使われると言ったのがパスカル・キニャール(「音楽への憎しみ」青土社)。
「ノイズ」とフランス語の「吐き気」は繋がりそれは「航海」「船」と同族で海の怒り狂う騒々しさを含み、自己の内なる実存の「ざわめき」と不安の吐き気の繋がりを言ったのが勝道興(「音響のオルガノン」(晃洋書房)
最近のアスリートの多くが試合の前にヘッドフォーンで音楽を聴いている。それは「考えなく」させるため。不安を払拭させるため。
私たちがやりたいのはそういうものではないために、ノイズとか、変な音とかと近くなるのも当然かも知れません。
関西小ツアーでの2回のダンスの会と「静かな音楽を聴く会」はまさにこういうテーマが現れるのだと思います。静かな音は、ノイジーな自分の身体や思考を隠してくれません。
混ぜて、揺れて、沈黙と対峙させ、新たな可能性への扉を全開にして臨みます。どうぞよろしくお願いいたします。
写真はネットから拾いました。