大自然に聴く=好イ加減ノススメ
この頃、病院で過ごす時間が多いので自然に身体のことを考えます。大自然と言ってもここで私の言う大自然とは人間の「身体」のことです。野口三千三さんのいう「身体に貞く」です。身体は、個人が所有しているものではなく、大自然の一部と考えます。
そう考えるには注意が必要かもしれません。譬えて言えば、創られたものが創造主のことを理解出来るわけ無いわけです。ヒトは創造主である身体=大自然を全て理解することなど出来ません。お伺いを立て、謙虚に聴く・訊く・貞くくらいが関の山。医学がどんなに発達し、哲学や心理学がどんなに人の心を解明を試みようが、結論へは到達しないでしょう。
それは「音」という漢字の語源とリンクしています。音も同じく、神(大自然と言ってもいいか)に伺いを立てるように、自分で「出す」もの「作る」ものではなく、「聴く」「待つ」もの。音を出すことは音を聴くこと、出す以上の分量で聴くことになります。(白川静説)
その「気づき」「教え」は、その人のレベルに応じてやってきます。
気がつくと「効果」を求めてしまう現代人への警鐘を「大自然」は常に鳴らしているのかもしれません。その鐘が聞こえるかどうか、あるいは、聞こうとするかどうか?でしょう。その声を聴かずに病気になっちゃったりして・・・(自戒)
どうも「大自然」は知足(足るを知る)を教えてくれているようです。もっともっとではなく、ちょっと足りない位を推奨している。それは現代社会が当たり前としている「効果第一主義」「経済第一主義」を危惧する感覚と直結します。
好い加減は良い加減です。そこを知るのが人生の肝。
いくつか例えを上げてみます。裏付けも無く、たんに自分流にです。
1:食べること消化すること吸収すること
消化するという事だけに、食べた食料のエネルギーの三分の一が使われる、と聞きました。前回食べたものの三分の一は消化に使われるのです。全体の分量が増えれば増えるほど、消化に使う栄養が必要になる。全体の量をコントロールする(腹八分目など)には知恵が詰まっています。たくさん食べれば、たくさんの栄養を使って消化しなければならないわけです。
また、同じものを食べても地域・民族・個人によって吸収能力が違うということもあります。タンパク質の足りない地域は虫だって牛肉なみに栄養になるそうです。
口に入れるものの量や栄養素だけでは決して計れないのが食べる・消化するということを忘れないでいたいものです。それは、空気や水分を摂ることと排出することの関係とも似ています。
2:眠ること
睡眠には多くのエネルギーが必要で、疲労回復しながら疲労している、という説。若い人が長時間眠ることが出来、高齢者が短時間なのもこのためと言うことです。(実感)短時間しか眠れないので疲れが取れていない毎日。
3:薬 サプリで補いすぎると、本来身体が作りだしていた能力が減ってしまうとよく言われます。健康第一でサプリを摂っても、身体は怠けてしまって逆効果ということさえ起こりかねません。
また、薬自体が大自然にとっては本来「異物」なので、局所的に効いても副作用が必ずあります。身体に備わった治癒力のみが治してくれる、それを応援することが必要。野口晴哉さん「人間の体は絶えずどこかが毀れている、そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区別はつけられない。」
4:それを植物で言えば「肥料」。やり過ぎは本来の生きる力・子孫(ヒトが収穫するもの)を残そうとする力を奪ってしまう。農薬はヒトにとっての薬でしょう。副作用は必ずある。粘菌からの生態系を考えた熊楠、全体を考えなければならない時です。
5:運動のしすぎも注意。二年前はジョギングに夢中でした。セロトニンかドーパミンか知りませんが、気持ちが良くなってドンドン毎日やりたくなってしまいます。セロトニンにしてもドーパミンにしても脳内麻薬といわれます。現実のつらさを一時忘れさせてくれるものなので、実際の身体は休みたがっているとも言えるでしょう。それを無視して楽しさにかまけていると身体を壊すことが多いようです。走れなくなったランナー、踊れなくなったダンサー、手が動かなくなったミュージシャン、耳を病んだ音楽家、目をやられた画家・・・
岩下徹さんは求道者のようなダンサーです。びっくりしたのは、一緒にパフォーマンスをして終演後、私は楽器をしまったり、聴衆と談笑しているのに、岩下さんはダンス(体操?)しています。ダンス後のダンス。ダンスをした身体を休ませるのに必要なダンスがあるということです。
パフォーマンスは多かれ少なかれかなり過酷な運動をしがちです。そのまま放って置いたらダメなのでしょう。見習おうと思いますが、なかなか出来ません。
6:音楽聴きすぎ・練習のしすぎも要注意なのかもしれません。
マーラーもバーンスタインもブーレーズもヘンツェも若い時は作曲専門でした。作曲家の収入は限られていますが、指揮者の収入はやればやるほど伸びていきます。それは桁が違う。時には3つも4つも桁ちがい。そのため指揮の仕事を増やすのは人生を考えれば当然・自然な流れなのでしょう。
指揮者の仕事は、簡単なものではありません。飛び抜けた才能も必要な上、社交性、スポンサー探しもしなければなりません。そして本業では、作曲家の書いた楽譜をつぶさに読み込み、研究し、想像し、演奏するオーケストラに合わせて再構築し、リハーサルをし、本番。もの凄い仕事量・情報量でしょう。その仕事を何年もやっていくと指揮の仕事は熟練し面白さも増しますが、どうしても作曲の時間もインスピレーションも減ってしまうのが現実のようです。
練習のしすぎも問題を多く含みます。たとえばコントラバスの教則本はお世辞にも音楽的とは言えず、その「つまらない」課題曲を根性いれてくり返しくり返しやっていくと、頭の中はその低レベルの音楽に占拠されてしまいます。人間はそんなに強いものではなく、その悪しき音楽がフィイードバックして身体に・脳に入ってしまいます。あ〜怖い。
7:力もそうでしょう。気張ってるよりリラックスしている時のほうが力は出ます。演奏もうまく行きます。
8:嗜好品と健康。嗜好品は身体に「悪い」から「おいし」くて「やめられない」のかもしれません。健康第一で健康健康と言っていたらかえってダメ。身体に悪いものを時々いれないとダメなのかも・・
純粋と雑種、侘びと寂、美と醜、異端と本流・・・あらあら、どんどん拡がっていってしまいます。まだまだ思いつきますね。もしかしたら大変重要なトピックだったのかもしれません。
また、書けるときに書いてみます。
写真は10月になって採れた我が家のゴーヤ。