そうです、叫びたくないひともいます。
幾重ものストレスに押しつぶされそうになり、呼吸が浅くなり、欲求不満が募り、韓国流に言えば「恨」が溜まってしまうのが今。時代閉塞と言った啄木とリンクします。
そんな時代に、ドラムスを打ち鳴らし、サックスがブロウし、ピアノが肘打ちを連打するのを聴くとスッキリするし発散出来ます。溜飲が下がるというやつ。人々が求めるのも尤もです。音楽の、ダンスの大切な役割でしょう。
でも、無音や動いていない動き、にこそ、ささやきや微動にも、フォルテシモを込めることが出来るのです。そしてそちらに向いている人もいるし、向いている楽器もあるのです。
本日のリーダー茂谷さやかさんもその種族でしょう。私が遅れて参加した準備運動は全員が輪になってグルグル回りながらさまざまな動作をする方法でした。これは早稲田小劇場での準備運動を担当していた鈴木健二(絢二)さんと同じ方法で懐かしかったです。
その中で、本番でもつかう「ささやき」を強く届ける動作(下から、地面から・・)があり、ささやきが叫び以上の力をもつというべき実践でもありました。本当のパワーとは何?パワー=気、であるとすると声や動作の大小・多少ではない。
逆に言えば、静かならばOKという話ではありません。能のシテ方のような強度、豊潤な沈黙を成り立たせるのに必要なものは何か?ある時はノイズであり、固い信念と柔らかい窓。
ピアニッシモやささやき、さらに言えば、無音や無動の中に願いを託すことが出来ます。このところ、こういう種のライブが続いています。時代精神の要求なのかも知れません。(ランドフェスでの松岡大さんとのセッション、ルバイヤート、京都での若尾裕さんとのデュオ)また、西洋には見当たりにくいアジアンの知恵なのか・・・
さて、ルバイヤート。
付け焼き刃でさまざまな本を読みあさりましたが、所詮、今の私に遠いには違いありません。ならば、このディスタンスを利用するしかない、と心を決め、また、短い連詩と言えば、私にとっては吉田一穂の「白鳥」。その強度を思い、オマル・カイヤームの反体制(禁酒の土地で酒の徳を詠い、権力者を皮肉る)を思い本番に臨みました。
(最近の研究では宮沢賢治がルバイヤートを読んでいた、とか、1000以上の宝石に散りばめられた超豪華ルバイヤート本は、タイタニックと共に沈み、その復刻本がかつて日本にあったとかを知りました。)
カナダのセリーヌさんがダンスする短いシーンがありました。見事に音を身体に入れてから踊っていて嬉しかった。ダンスを引き立てるもの、効果、あるいは、異化効果、あるいは時計代わり、として音楽を捉えてない。嬉しいものです。
私の役割として、時に時間の流れを止め、時に内容に沿った音楽・演技をし同化し、時に共演者に刺激を与え、時に放り投げ、問いかける、を想定しながら進めていきました。横浜港の汽笛の音や、蜃気楼のような遠くで聞こえる大歓声も舞台に協力してくれました。
もともと美術専門だった茂谷さやかさんが身体性・呼吸に注目し、実践し、言葉の純度、強度に惹かれ、今、こういう演劇形式を取っています。興味深い事です。薬学・数学専門だったジャン・サスポータスさんは40年間ダンスをしています。絵描きだったオリヴィエ・マヌーリはバンドネオンを弾き、アカデミズムに残ると思われた私はコントラバスを弾いています。
さやかコレクティブのさらなる発展を、そして願わくば「アート」から逸脱できますように!